第三章 経験価値マーケティングとブランディング(2)
2008年10月26日
一時期、顧客満足(Customer Satisfaction)ということが盛んに言われていたことがある。顧客満足度調査を実施して製品やサービスの改善の糸口にしようという試みも頻繁に行われていた。
だが、90年代半ばを過ぎると、ドン・ペパーズとマーサ・ロジャーズの『The One to One Future』(1993年)によって広く知られるようになったワン・トゥ・ワン・マーケティングの考え方により、顧客をマスで捉えての「顧客満足」という最大公約数的な、いわば生産者の視点から見た顧客満足度を計測すること自体ばかりか、個人の顧客満足度ではなく市場満足度という考え方も抽象的な指数値でしかないという認識が広まった。それによって製品やサービスの改善を重ねても、それは生産者側の自己満足に過ぎず、今日のように多様化した顧客ニーズを決して反映しないものとして考えられるようになった。また、顧客満足度は期待度分の達成度であり、多様な顧客のニーズを考え合わせると信頼性に欠けると言われるようになる。
顧客満足(CS)から顧客感動(CD)へ、そして顧客共感(CS)に。
私たちマネジメントやマーケティングに携わる者は、顧客を満足させたと推定できるだけで自己撞着的に充足してはいけない。共感していただき、サプライズをともなった感動をしていただき、私たちの団体や劇場・ホールに目が離せないほど夢中になっていただき、最終的には「身内意識」を持っていただかなければならない。
「顧客満足」というのは、顧客が意識できているデマンドを満たすことを意味している。それに対して、次いで多くの企業が志向した顧客感動(Customer Delight)という考え方は、いわば「驚き」をともなう心の動きであり、顧客に意識されていない潜在的ニーズに対しても強く働きかけるサービスや製品を目指すことである。
デマンド(demand)は個的には意識できている「欲求」であり、社会的には顕在化している「需要」である。ウォンツ(wants)に近似した心の動きである。一方、ニーズ(needs)というのは「潜在的な欲求」であり、また「社会的必要」とも言える。「ニーズ=需要」という従来からの訳語は正確な意味を映していない。
梅沢信嘉の『消費者ニーズの法則』によれば、ニーズの定義は「満足を得るために行動を駆り立てる人間の動因機能および状態である」とある。また、潜在的ニーズとは「未充足なニーズであるが、充足する商品の存在を認知していない、または自分が未充足であることを認知していない状態」とあり、それが満たされた場合に驚きをともなった心の動きとなり、「感動」という心的状態が現出する。
とりわけ潜在的ニーズが充たされたときの、この「驚き」に私たちは着目すべきであると思う。言葉を換えれば、パインとギルモアが『経験経済』のなかで言及している「意外性」である。この「驚き」や「意外性」を演出するのが芸術団体や劇場・ホールの経営側の仕事である。「驚き」や「意外性」を演出するためには、社会全体の感性的なメガトレンドが何処にあるのか、その社会の中で個的な部分で潜在化している欲求は何なのか、不満は何なのか、怒りは何なのか、何を希求しているのか、そのあり方はどのようなストレスを人々にもたらしているのか、などの認識が組織全体で共有されていなければならない。そうすることで「シーズン・テーマ」や「組織のアイデンティティ」の輪郭がおのずと浮かび上がってくる。必然的に舞台の色合いや彩りも決まってくるだろう。
しかし、「驚き」や「意外性」を演出するだけだと、顧客の立場にたてばそれは「働きかけられた結果」であり、受動的な消費の姿勢からは一歩も出ていない。大切なのはコミュニケーションによる価値の創造なのだ。舞台芸術の特性と強みを活かさなければいけない。舞台芸術の鑑賞行為の場合、観客や聴衆は「みずから働きかけた結果」としての共感と共創という達成感に至ることはすでに述べた。つまりは、顧客共感(Customer Sympathy)であり、さらに言えば積極的に協働して次々と新たな価値に至るという意味で顧客価値生成(Customer Co-becoming)とも表現できるだろう。舞台芸術の顧客はきわめて能動的な消費行為の主体であることを強く認識しなければならない。
ここに至って、舞台芸術は、ブランディングへの確固とした基盤を手に入れることができ、ブランド構築への戦略の必要条件を充たすことになる。すでにブランドを確立している集団・団体は、そのブランドの一層の強化を推し進めることができるだろう。
ブランディング戦略は人間観の表明と顧客とのコミットメント。
ブランディング戦略は、多様な顧客共感を経営戦略に従って統合して、競合他社との差別化をはかるプロセスである。と同時に、提供されるサービス品質を保障して認識の困難性を軽減し、鑑賞環境の質を向上させるための顧客価値に関わる戦略的プロセスでもある。したがって、ブランディングは顧客の受容を促進するための経営戦略である。ブランドが重要な無形資産であり、経営資源であることは言を待たない。
また、地域劇場・ホールの場合には、商圏という比較的狭い範囲でのブランディング戦略と、外部からの評価を呼び込んで成立させることを企図するナショナル・ブランドを編み合わせなければならないという特殊性がある。このナショナル・ブランド化は、商圏のブランド力にフィードバックされてブランド価値向上の循環をスパイラル状に起こす効果がある。それぞれの手法は異なるが、出発点は同じであり、別々のルートで進捗して、最終的には統合されて揺るぎないブランド価値となる。
さて、ここであらためて「ブランド」の効用とその構造を考えてみよう。「ブランド」は、第二章で述べたように、舞台芸術の共同生産性からくる認識の困難性を克服する重要な役割を果たす無形資産である。チケットを購入する意思決定にも、また、あらかじめ感じる顧客の期待値にも大きな影響力を持つ。さらには第一章で記述したような時間の希少性と、それと反比例して多種多様になった選択肢が、一層に時間の希少性を際立て余暇時間の過ごし方へ価値判断に厳しい選択基準が設けられる、というメガトレンドにも耐えうる力ともなる。
B to C(対顧客)のみならず、B to B(対業者)においても「ブランド」の力は、交渉優位性や選定優位性を存分に発揮できる背景となる。また、地域の公共文化施設においては、政府自治体との折衝力や協働性に影響を与えるばかりか、住民へのメッセージ発信の信頼性を高める。つまり、行ってみたい、住んでよかった、住んでみたいという地域の活性化に大きく寄与する源泉ともなるのだ。
あわせて、ブランディングの進捗は、財政困難、指定管理者制度、新公益法人改革という地域の公の施設を将来にわたって包囲する荒波のなかにあって、その設置意義を厳しく問われている公共文化施設の存立根拠を明確な輪郭で描き切ることになる。いわば顧客との「約束」を果たし、地域社会との「契約」の履行を目指すのがブランディング戦略の一側面なのである。
ブルー・オーシャン創造と「ブランド」の役割。
地域の公共文化施設は、はからずも市場に競合他社のほとんどいない圏域を商圏としている場合が多く、仮に競合する施設があったとしても、ある意味ではW・チャン・キムとレネ・モボルニュ(ともに欧州経営大学院教授)により2005年に提唱された「ブルー・オーシャン」を地理環境的には成立させているといえるのかも知れない。
狭義の市場ではそう言えるが、広義に考えると地域の公共文化施設が置かれている外部環境は、指定管理者制度などの要因によって血の海である「レッド・オーシャン」そのものである。それを克服する手立てはブランド説得力であり、新しい「市場」の創造以外にはない。既成の「市場」での優位性を獲得しようと企図する「戦略」ではなく、私たちが着手すべきは、まったく新しい外部環境=広義の「市場」を創造する仕事(task)と考えるべきである。広義の市場とは、ナショナル・ブランド化による創客にほかならない。指定管理者としての磐石な存立基盤を獲得するにはそれ以外に方策はない。
日本ではじめての、可児市文化創造センター(ala)と、新日本フィルハーモニー交響楽団、劇団文学座との「地域拠点契約(Regional Stronghold Agreement)」の締結を「ブルー・オーシャン創造」の一環として私は位置づけている。
むろん、本来の施設機能から考えれば、優れた音楽と演劇、あるいはダンスのカンパニーを付属させるのが理想である。そうであれば、通年常時でコミュニティへの文化的なサービスや様々な問題解決に対応することが出来る。しかし、カンパニーを付属させて維持しようとすれば最低でも年間およそ8億円程度の経常経費(固定費)が必要となり、この考えは今日の財政事情では現実的ではない。このどれかひとつを抱えるだけで3億円前後の予算は必要となるだろう。であるなら、必要なプログラムを必要に応じて優先的に提供してもらえる契約関係を芸術団体と結べば、付属のオーケストラやカンパニーを持っているのに準じるサービスの多様性と品質を担保できるのではないか、というのがこの地域拠点契約の発想の原点である。
また、イングリッシュ・ツアリング・カンパニーの事例も参考になった。英国北西部チェシャー州のクルーは人口約6万7千人のまちで、ロールスロイスの本社工場があることで有名だが、ガイドブックにもほとんど載っていないような町である。その町の中心にあるライシャム劇場は伝統的な建築物だが、巡回してくるカンパニーを待ち受けるだけのレシービング・シアターで、まちの人々も年に何回が訪れる巡回型の芸術団体をひたすら待っているだけであった。ところが、町の人々とカンパニー側の思惑が一致して、ナショナル・ツアーの初日をクルーのライシャム劇場で迎えるという協定が組まれることになる。イングリッシュ・ツアリング・カンパニーはロンドンで稽古をして、初日の二週間程度前になるとクルーにやってくる。初日の幕を開ける準備とリハーサルをしながら、上演作品に関連したアウトリーチやワークショップなどのプログラムをまちの人々や学校に提供する。町はにわかに活気づくという。
可児市文化創造センター(ala)の、新日本フィルハーモニー交響楽団と劇団文学座との「地域拠点契約」も、付属オーケストラや付属劇団を持てない財政事情という外部環境のなかで選択された次善策であり、代替策と言える。
公演、演奏会のほか、市民へのワークショップ、セミナーの機会の提供、教育機関、福祉機関、医療機関等へのアウトリーチ・プログラムの実施などの、すべての活動と費用を包括した三年限の契約である。むろん、その更新は妨げない。この二つの芸施術団体はともに高い芸術的水準をもち、あわせて年間300から400の、多様な人々へのワークショップやアウトリーチ・プログラムを供給している。その実績と経験と技術集積が「地域拠点」という特殊性と合致したのだ。
この「地域拠点契約」で実施される事業の数々が、地域市民との関係づくりに寄与することはむろんのこと、ナショナル・ブランド化のための果実となることもあわせて期待されている。「地域拠点契約」はその視点から評価すれば、まぎれもなく可児市文化創造センター(ala)の「ブルー・オーシャン創造」のための戦略の一環である。また、ブルーオーシャンを創造する過程で獲得する「ブランド」が、組織内の活性化を生み出すことも付け加えておきたい。内部市場(Internal Markets)への影響力である。ブランディングのプロセスは、組織内コミュニケーションを活発にして、職員の革新性と市民や地域への奉仕意欲、仕事への誇りを高めるインターナル・マーケティングにも大きな影響をもたらすことになる。
人材市場からの優秀な才能の供給が容易になることも「ブランド」効果のひとつである。採用市場(Recruitment Markets)への働きかけにもなるのである。それは、「ブランド」の持っている革新性と挑戦性に共感した有能な新しい人材がおのずと集まるからである。挑戦的な組織のビジョンに共鳴するチャレンジナブルな人間が集まってくる。当然だが、組織は著しく活性化するだろう。
ならば「ブランド」とは何なのだろうか。一般的には組織が内部で共有している世界観の現われと言われているが、芸術団体や劇場・ホールにあっては、私はむしろ、「人間に対する眼差し」に対する共感の集積ではないか、と思っている。「人間観」とでも言うべきものである。むろんその「人間観」を形成する要素として世界観は反映されるだろうが、人間的な共感をベースとしたサービスである芸術文化に関するかぎり、私は、「人間に対する眼差し」が施設のあり方、作品の内容、顧客価値への関与の仕方に大きな影響を与えると考えている。
より豊かな社会をつくることに、あるいはすべての人間にとって生きやすい世界をつくることに、いかに「挑戦的」であるか、「革新的」であるか、そしてそのための「新しい価値」に貪欲であるか、これらはまた芸術文化に関与する人間の「資格」であり、「条件」でもある。そういう人間の集合体である組織・団体だけが確かな「ブランド」をもつと、私は考えている。