第二章 最新のアーツマーケティング/その理論的根拠。(3)
2008年9月3日
今回は舞台芸術の事業定義について考える。私たちの事業定義は、芸術愛好家に舞台作品を提供することではない。
舞台作品が舞台芸術産業の中核商品ではあるが、私たちが提供しているのは舞台芸術とそれに関連するすべての「経験価値」である。
その経験価値をより大きな物とするには、複数の資源を最適に組み合わせて事業を行う多資源経営であることを述べる。
舞台芸術の事業定義をする/私たちは何を提供しているのか。
「事業定義」についてのセオドア・レビットの『マーケティング近視眼』での鉄道会社衰退に対する指摘はあまりにも有名である。
鉄道が衰退したのは、旅客と貨物輸送の需要が減ったためではない。それらの需要は依然として増え続けている。鉄道が危機に見舞われているのは、鉄道以外の手段(自動車、トラック、航空機、さらには電話)に顧客を奪われたからではない。鉄道会社自体がそうした需要を満たすことを放棄したからなのだ。鉄道会社は自社の事業を、輸送事業ではなく、鉄道事業と考えたために、顧客をほかに追いやってしまったのである。事業定義をなぜ誤ったのか。輸送を目的と考えず、鉄道を目的と考えたからである。顧客中心ではなく、製品中心に考えてしまったのだ。
これに続いてレビットは、映画会社の危機についても「映画をエンタテイメント産業と考えるべきだったのに、映画を製作する産業だと考えてしまった」として、「ハリウッドはテレビの出現を自分たちのチャンス―エンタテイメント産業をさらに飛躍させてくれるチャンスとして歓迎すべきだったのに、これを嘲笑し、拒否してしまった」と展開させている。つまりは経営者が「事業定義」を誤ったために産業自体の危機や衰退を招いてしまうことが往々にあると結論づけているのである。
マイケル・E・ポーター(ハーバード・ビジネススクール教授)は、レビットの『マーケティング近視眼』での考察を「<製品中心の狭量な定義に陥る>ことを避けるよう強く主張した」と簡潔に評価し、「彼以外にも経営理論家の多くが、事業を定義する際に製品にこだわらずに機能に注目すること、国境にこだわらずに今後の国際競争を視野に入れること、現在のライバルだけでなく将来競合になりそうな相手に注目することを強調してきた」(『How Competitive Forces Shape Strategy』)と、「事業定義」が営利、非営利を問わず、いまも、これからも企業経営の大きな課題であることを指摘している。事業定義をどのようにするかが、企業や団体の未来を創造する決め手となり、事業の衰退期を回避し、リスタートを可能にすることにもなるのである。
ピーター・F・ドラッカーもまた、西部開拓時代に幌馬車の車輪を造っていた鉄工作業者が、鉄道時代への変化にともなって金属工作の高度な技術を持ちながら次々に事業をたたんでいったのは、自らの事業定義を狭く見てしまったから、と述べている。運輸機器製造事業者とみずからを規定していれば、鉄道時代という変化にも適応していたと断じている。今日存在するものは、すべて昨日の産物であるというドラッカーの至言のひそみに倣えば、事業を定義するということはすなわち「明日を創造する」ことにほかならない。別の言い方をすれば、未来を創造できない事業は危機にさらされ、やがて必ずや衰退する、ということである。
最近、ぴあ株式会社の経営危機がいろいろなところで報道されている。ネット検索が容易に、しかも広範に行える外部環境になって、出版事業の「ぴあ」本誌は情報誌としては時代的な役割を終えており、最盛期の30%程度の売上部数になっているのは当然の成り行きであるが、この経営危機の本質は、チケット・ぴあにあると言える。コンピュータによるチケット販売を「チケット事業」と狭く事業定義したことにあると私は思うのだ。チケット販売を手段と捉えて、「顧客情報を蓄積して効率よくマーケティングするための情報業」とみずからを位置づけて事業定義をすれば、21世紀にあっても持続可能な新しい業態が生まれていたはずである。84年のチケット・ぴあのサービス開始時に、今日のようなネット環境とソフト開発とマーケティングのコペルニクス的転換がなされることを予期できなかったことがすべてである。時代は、経営者の想像を超えて加速度的に変化したと言うべきかも知れない。このことの詳細は後述する。
ひるがえって、たとえばオーケストラや劇団は顧客に何を提供することを目的としているのか。舞台芸術産業の「事業定義」してみよう。
ともに芸術性の高い演奏や舞台を提供していると思い込みがちだが、前述したように、そこからテイク・オフしないかぎり時代の変化から取り残されると私は思っている。素晴らしい交響曲を聴いていただく、練り上げられた演技を観ていただく。それに間違いはない。だが、マネジメントやマーケティングに携わる者ならば、別の視点から舞台芸術と顧客とのあいだに起きる「出来事」と、顧客の「経験の総体」に思いを馳せなければならない。芸術愛好者だけをターゲットとした事業定義から、すべての人々のライフスタイル総体の変化を視野に入れた産業構造へと大きな変革を果たさなければならない。その視座に立てば、「聴く」、「観る」はあくまでも行為そのものを意味するのであって、その行為を顧客が得る利得と考えると「製品志向」のマネジメントやマーケティングに陥ってしまう。劇場やホールを「何かを観る、聴く場所」という役割に留めるかぎり、私たち劇場の仕事は一方的な「享受の場の提供」に過ぎなくなる。舞台芸術産業は、大きく変わらなければならない。
私たちは劇場・ホールや舞台芸術に関連するあらゆる「経験価値」に関わっており、すべての「経験価値」を直接的にも、間接的にも提供していると考えなければならない。舞台作品それ自体は中核製品(Core Product)であり、直接的な経験価値であるが、そのより良い体験のために顧客の期待するサービスや環境を期待製品(Expected Product)と定義し、その他の期待を超えて派生する体験を拡張製品もしくは付加製品(Augmented Product)と言う。マーケッターはそれらの最適組み合わせを組成して、そのプロジェクトのポジショニングを決定しなければならない。また、マーケッターには、そのような「経験価値」のある豊かなライフスタイルを提案しているのだとの職業的な自覚が必要である。私たちが提供しているのはいわば「生き方」であり、「変化」なのだから。
フィリップ・コトラーとジョアン・シェフ・バーンスタインはアーツマーケティングを以下のように定義している。
我々はマーケティング・マネージメントの定義を、マーケターの目的を完遂することを目標に、ターゲット・オーディエンスとの有益な取引関係を創出し、構築し、維持するためにデザインされたプログラムを、分析し、計画し、実施し、コントロールすることと定める。マーケティングとは、団体が自身の目標とする範囲内で新たな顧客を創出し、満足させるという目的を持ちながら、創造的、生産的、有益的に市場に関わっていくプロセスである。この定義の重要な特色は、取引に焦点を合わせているということである。マーケターは、取引を創出し、構築し、維持する専門職に就いている。取引が行われるのはターゲット・オーディエンスが行動を起こす時に限られているため、マーケティングの究極の目的は、行動に影響を与えることだということになる。(『Standing Room Only』)
どこまでを「顧客価値」と考えるべきか。
私たちが提供しているのは「経験という価値」である。あるいは「新しいライフスタイル」を提案するサービスである。
したがって、舞台芸術産業の中核商品(コア・プロダクト)は、音楽であり演劇でありダンスであるが、マネジメントとマーケティングの中核をなすのは顧客の受け取るあらゆる価値を演出・提供するカスタマーバリュー・デリバリー・システム(顧客価値提供システム)であると考えるべきである。「顧客価値」は中核商品の受け手である顧客の内側で起こる「出来事」である。つまり、形のない、捉えようのない、提供する側が完全にコントロールできないものである。その意味で、マネジメントやマーケティングの視点からみれば、舞台芸術は「プラットホーム型商品」とも言えるだろう。
「実際にプラットフォームに何を乗せ、どういう意味を持たせるかは、顧客に創作をゆだねるのだ。顧客の想像力を誘発し、顧客の個人的な生活シーンを描けるサービス商品の提供である」
(近藤隆雄『サービス・マーケティング』)
劇場・ホールで提供されるコア・プロダクトが「プラットホーム型商品」であるとすれば、自分たちが提供しているサービスの品質を高度化するというマネジメント課題は、顧客の体験の質を向上させるためには何を、どのように施せばよいかという「演出」の問題に転換できる。何を改善し、どのように「演出」を施せば顧客価値の品質を向上させることができるか、という具体的な経営的課題と問題解決の筋道が見えてくる。その観点に立って、舞台芸術団体や劇場・ホールの事業構造を早急に見直すことが今後の喫緊の重要課題となってくる。
そうなると芸術団体や劇場・ホールは、現在行われているマネジメントのスキルやマーケティング手法そのものに見直しが求められ、それらを大きく転換させる必要に迫られるであろう。「優秀なサービスとは何かを定義するのは顧客である。そして、彼らの定義に重点を置くのは、マネージメントの責務である」(『Standing Room Only』)ことを知らなければならない。
舞台芸術事業が顧客に提供する経験価値は「ある刺激に反応して発生する個人的な出来事」であるが、それは「自発的に生み出されるものではなく、誘発されるもの」である。むろんコア・プロダクトである音楽や演劇によって経験価値が誘発されると考えられるが、そのほかにも劇場それ自体の施設環境や景観や立地などの周辺環境を含めたフィジカル・エビデンス(物理的根拠)や、鑑賞前後の食事や喫茶、語らい、帰宅後の家族のあいだで交わされる会話など、劇場やホールでの経験によって誘発されるあらゆる種類の「出来事」や、それらに誘発される感性的なインパクトのすべてが舞台芸術産業の顧客にとっての「経験価値」となる。
この「経験価値」は「思い出」という記憶への刷り込みとなる。その「記憶」が心や感性や他者との人間関係や地域社会へのロイヤルティを形成するように働く。芸術文化や劇場・ホールの社会的効用がここにある。ならば私たちが従事するのは、心が揺さぶられるような「体験」と、そこから生まれるかけがえのない「記憶」を購入していただく産業なのではないか。さらには「生き方」や「ライフスタイル」の変化を顧客自身と社会から期待されている産業なのではないだろうか。ミュージカル『CATS』の原作者であるトーマス・S・エリオットは、「人間は、ルーツや思い出、愛着、幻想、超越を必要としている」と、人間はどのように現代的な感覚を身にまとおうと、心に深く刻まれる記憶や愛着から逃れようもなく存在していることを述べている。
可児市文化創造センターのWEBに連載している「館長エッセイ」に、私は次のような文章を書き込んでいる。
心を動かす演劇や美しい旋律の音楽に触れることで、人間はいろいろな感情を記憶します。人間の「美しさ」や「醜さ」や「いとおしさ」や「やさしさ」や「楽しさ」や「哀しさ」や諸々の感情を体験します。あるいは意識していなかった人間や出来事に対する感情を追体験することにもなります。その薄紙のような心の動きの一枚一枚を重ねていって人間的な感性は長い時間かけて醸成され、「記憶」されていくのです。(『文化は健全な未来をつくる記憶』)
たとえば、米国のプロバスケットチームで当時は弱小チームだったニュージャージー・ネッツは、チケット4枚、スポンサーであるレストランでの4人分の食事、ネッツの帽子とバスケットボールをまとめたファミリーチケット・パッケージを売り出した。(ジョン・スポールストラ『エスキモーに氷を売る』より)
これは経験がもたらす「思い出という経験価値」を家族で共有してもらおうと企図してつくられたパッケージだ。エキサイティングな試合、ネッツの帽子をかぶっての応援、家族揃っての興奮した語らいのある食事、そしてネッツのロゴの入ったバスケットボール、これらの相乗効果が「経験」をかけがえのない思い出として演出する。このようなマーケティングによってジョン・スポールストラは、入場料収入が5年連続でNBA最下位、その間成績も最下位か下から二番目のチームを、一切の補強をせずに、観客数を最下位の27位から12位にまで増やすことに成功した。
劇場やコンサートホールやオペラハウス、さらには美術館などが、ホール部分のほかにレストラン、カフェテリア、バー、グッズショップ、ブックショップなどで多資源化するのは、このような相乗効果を狙ったものといえる。英国北部リーズ市にあるウエストヨークシャー・プレイハウス(WYP)では、前記の経営資源のほかに、衣装や装身具、かつらなどをストックしてある施設までも経営資源化して「コスチューム・ハイヤー」というコミュニティ・サービスを行っており、明らかにそれらの相乗効果を劇場経営に余すところなく反映させようと企図していると考えられる。WYPのマーケッターは、顧客にとって最も望ましい経験価値を体験してもらうための「環境」を提供しようとしている。
日本では、劇団わらび座の拠点であるたざわこ芸術村が多資源経営の好事例である。たざわこ芸術村は、客席数710席のわらび劇場を中心にして、小劇場、温泉付きのホテル、温泉、地ビール製造と付属するレストラン、食事処、喫茶店、化石館、デジタルアーツ・ファクトリー、森林工芸館、各種ワークショップなどを備えている。それぞれの顧客データが一元化されていないために多資源経営が円滑に行われているとは言い難いが、それでもこれだけの経営資源を有している事例は日本では稀有なことだ。
可児市文化創造センター(ala)では、レストラン「カテリーナ・デ・アーラ」との連携を、定例意見交換会議を設けるなどして強力に推し進めている。これは顧客の「経験価値」を演出するための経営方針であり、そのことによってよりよい思い出を劇場に残していただきたいと考えているからだ。事業の前後でのディナーやランチ、ティーパーティの開催、プレゼント相手にメッセージを書けるラブレター・チケット、アニバーサリー・チケットなどの食事つきのライフスタイル提案型チケット販売、ウェブサイトからのレストラン予約を可能にするシステム設計など、連携の強化によって顧客価値に幅と奥行きを持たせることが可能となった。むろん食事の味が良いこととサービスが行き届いているが前提であるが、このようなアライアンスには「経営感覚の共有」が絶対の条件になる。劇場・ホールでの経験が、それらの多資源と共鳴しあい、「経験価値」が増幅されるようなサービスでなければ意味は成さない。
また、自主事業の当該月に誕生日を迎えた、あるいは迎えるお客さまの座席に職員の手作りバースディ・カードとグッズと一輪のバラを置いておいて、館長の私が「○○さま、今月はお誕生日、おめでとうございます」、「ごゆっくりお楽しみください」とご挨拶にうかがうバースディ・サプライズ・プロジェクトも顧客経験をふくらまして、忘れることの出来ないよい思い出を劇場に残していただくための企画である。
私は館長兼劇場総監督として就任してすぐに、市民にとって地域の劇場はどのような場所であるべきかを考えた。そして、可児市文化創造センターは「芸術の殿堂」ではなく、人々の様々な思い出が詰まっている「人間の家」でありたいと思い、それに沿ったミッション(使命)を定めた。地域劇場・ホールや美術館は、受益対象を芸術文化愛好者に限定することは政策目的になじまない。この「人間の家」には、地域のすべての人々を視野に入れたサービスを供給する社会的制度であるべきとの思いがある。レストランとの連携強化やバースディ・サプライズは、そのミッションにしたがった経営戦略であり、ブランド戦略のひとつである。
地域の公共文化施設は、芸術愛好家のみが利益を享受する「芸術の殿堂」であってはいけない、というのが私の考えである。また、可児市のように人口10万のまちにそのようなニーズもない。民間が経営するのなら何であろうと構わないのだが、「公共」である最低限の要件は満たさなければならない。公共の劇場・ホール及び美術館は、地域の文化的拠点形成という「政策目的」によってではなく、何らかの社会的・福祉的課題や教育施策を実現するための「政策手段」として設置されるべきなのではないか。「人間の家」という定義づけは、その考えを込めたものである。そのためにも、劇場・ホールは多様な経営資源を集積しなければならないと考えるのである。
日本のように芸術団体が劇場やホールを所有しておらず、場所を借り受けて公演を打っている場合にはこの経営手法は難しい、と思われるだろう。しかし、次回は町全体として経営の多資源化を実現しているケースを紹介する。これなら劇場・ホールを借り受けて公演を成立させる日本の特殊な公演形態下でも実行可能なのではないかと思われる。