第181回 日本の劇場が大きな変革期にはいるために― 社会的投資回収率(SROI)が文化政策に劇的な変化をもたらす。
2016年5月20日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
3月初旬のことだったと記憶しているのだが、恒例になっている大型市民参加型事業『オーケストラで踊ろう―運命』を数日後に控えて、手料理で軽く晩酌をしながらパブロ・エルゲラ著『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 ― アートが社会と深く関わるための10のポイント』を、テレビをつけたまま読んでいました。これはニコラ・ブリオーの『関係性の美学』が21世紀アートに与えた地域アートフェスティバル等のリレーショナル・アートへのパブロ・エルゲラの疑義をまとめたもので、数日後に控えている『オーケストラで踊ろう』も、この『関係性の美学』の範疇に組み込まれる事業スキームであり、帯に書かれた「社会に関わり、社会を変えるアートに、私たちはどう取り組むべきか?」に魅かれて衝動買いしたものである。
点けっぱなしになっていたテレビから「市場にあふれているマネーが本当に必要としている人に届いていないのです」というナレーションが耳に入ってきた。目をあげるとテレビに熱弁をふるう人物が映し出されていた。金融工学者のジョン・ソーがその人物である。「世界には100兆ドル(1京1000兆円)の金があふれており、そのうち10兆ドルから20兆ドル(1100兆円?2200兆円)の過剰資金があって、その行き場がないのです。責任のあるやり方で社会に有益な行き場を見つけてあげられるかどうかは我々にかかっています」というコメントは非常にシンプルであったが、有数の金融工学者の話であったので極めて説得力のある語り口だった。彼は60億ドルの投資資金を動かすファンドのオーナーである。
NASAの宇宙開発の後退によって大勢の選りすぐりの数学者たちがウォール街に流入して、リーマンショックを起こすことになる怪しげな金融商品を開発することになるが、彼もそのうちの一人である。「いま金融工学は新しい段階を迎えています。世界の投資家はマネーゲームにうんざりしているのです。経済はゲームではないのです」というメッセージに読み止しの本をおいて聞き入ってしまった。『マネーの狂わせた世界で ― 金融工学者の苦悩と挑戦』というドキュメンタリーだった。彼は「人々の幸せのためにある金融工学がなぜ人々を奈落の底に突き落としてしまったのか」というリーマンショックを引き起こしてしまったことに自責の念を持っている、私には少なくとも稀有な金融工学者だと思えた。実体経済を下支えするために考えられた金融工学が、実体経済を置き去りにして「カネがカネを生むマネーゲーム」という鬼っ子を生み落し、16世紀から続いてきた資本主義経済を破綻させようとしている、グローバル経済とマネタリー経済の現代新自由主義経済思想の申し子である金融工学者に対する私の敵意と偏見は尋常ではない。だからこそ、ジョン・ソーの自己の技術集積を活用した倫理的な発想と金融工学者としての使命の持ち方に私の心が動いた。
ここでいう「有りあまるカネ」とは、先進諸国の金融政策、ひいては経済政策の失敗によるものであり、景気浮揚対策として有効な施策を打てずに行き過ぎた金融緩和に過剰に依存した結果で溢れかえるカネは、新しい価値を生み出す設備投資やGDPの60%を占める消費にはまわらず、行き場をなくしてひたすらマネーゲームの投機に流入している。世界は従来の経済学の知見では予測できない事態に突入していて、もとより過去の経験的な政策でもコントロールできない予測不能な時代に至っている。日本の昨今の政策をみても、経済成長期の工業化社会で求められていた均質的な筋肉労働から知識サービス産業化への移行の時代になって女性の社会進出が時代の変化で必然となったにもかかわらず、そのうえ核家族化が時代の流れで一般的になったにもかかわらず、「要介護1」と「要介護2」は在宅介護として介護離職をせざるを得ない状況に国民を追い込む施策がとられている。「政治の失敗と劣化」のツケを国民が支払わされているのである。介護心中という悲劇が後を絶たない。
しかも、規制緩和を進める新自由主義的政策は、一番抵抗感のない労働法制の緩和を急進的に進めており、非正規雇用の増大と国民の困窮をひたすら大きなものとしている。雇用が拡大したと政権は自画自賛しているが「雇用の質」には一切頬かむりしている。現に女性の非正規率は57%にもなり、労働政策研究・研修機構の調査によれば、壮年期にあたる35歳から44歳の非正規シングル女性の半数は貧困状態にあるといわれている。人生最初の社会保障である「教育の機会均等」を疎外する「子供の貧困」の原因がここにある。アダム・スミスの『道徳感情論』の一節である「貧しさの真の悲劇は、希望を持つことができないことだ」(The real tragedy of the poor is the poverty of their aspirations.)が 今日的な切実な社会問題を言い当てている。国民すべてに保障されている憲法13条の「幸福追求権」なぞ画餅でしかなくなってしまった社会であり、時代なのである。
この「政府の失敗」の最大の要因は、すでに成長社会ではなく、成熟社会であるという現状認識の欠落が政策を誤らせており、成熟社会下での無理やりの経済成長優先という誤謬の結果が、社会的矛盾の噴出と、大多数の国民の困窮化と格差増大という事態を招いているのである。成熟社会とは、人間に例えれば40代から60代の壮老年期である。無理やりに成長させようと思えばいたるところに痛みや麻痺が生じてしまうのである。その結果、昨今では著名な経済学者の口から「幸福」というタームが出るようになった。従来は「幸福」という概念は主観的なものとして経済学の対象には絶対になりえなかったにもかかわらずである。さらにはフィリップ・コトラーのように『資本主義に希望はある』(原題 Confronting Capitalism)を著してこの時代を克服しようとする研究もあるにはあるが、経済学者や財政学者のなかには資本主義の機能不全を指摘して、「資本主義の終焉」にまで言及する者まで現れている。
話を元に戻せば、「マネーが本当に必要としている人に届いていない」という認識は、先進諸国の政策の誤謬と財政危機と表裏であり、その事態を克服する手段として社会的インパクト投資(Social Impact Bond)という、国自治体の政策課題を投資対象にした資金調達をして債権を組成する手法の研究と模索が行われている。ソーシャル・インパクト・ボンド(SIB)とは、行政の事業に対して民間が投資して、その事業で得られた成果(行政コストの軽減など)に応じて出資者が配当を得られるという仕組みである。行政は民間資金を財源に事業を行えるため財政負担を削減できるというものである。 ちなみに大和証券、山一証券をはじめ日本財団社会的投資推進室等がこの仕組みに積極的に取り組んでおり、投資残高は昨年末段階で26兆6872億5600万円にも及んでいる。
近年注目されつつある劇場音楽堂等により社会包摂事業の展開が社会課題を解決し、給付金行政では解決できない人間としての尊厳の回復を、そのサービス給付により解決に向かわせることは、アーラでの「アーラまち元気プロジェクト」(年間422回)により経験的には確信があり、投資対象として検証されるべき取り組みであると思っている。その第1段階として、そのようなプロジェクトの成果を「見える化」する手法として、社会的投資回収率(Social Return on Investment SROI)の援用を考えてみてはどうだろうかと提案したいのである。
英国の社会学者であるアンソニー・ギデンスは「ポジティブ・ウェルフェア」(積極的福祉)という概念を提唱しています。彼は「ウェルフェアとは、もともと経済的な概念ではなく、満足すべき生活状態を表す心理的な概念である。したがって、経済的給付や優遇措置だけではウェルフェアは達成できない」と述べ、「福祉のための諸制度は、経済的ベネフィットだけでなく、心理的なベネフィットを増進することも心がけなければならない」とも述べています。先に私が経済学者の言う「幸福」は、HAPPINESSというよりもWELFAREに近い意味合いなのではないかと言ったことと呼応する概念提起です。この「ポジティブ・ウェルフェア」の拠点施設としての劇場音楽堂等こそが、それ自体の変革を推し進めることになり、そのために「社会的投資回収率の援用」が社会包摂事業の政策根拠(エビデンス)を形成する、と私は考える。
従来は社会課題に対応するコミュニティ・プログラムは「笑顔になった」、「仲間ができた」、「クラスが一体化した」などの定性的な評価にとどまっていたが、この調査算出方式を援用することによって、貨幣価値化して政策根拠(エビデンス)を提示できるようになる。現在でもこれらのワークショップやアウトリーチは「収入のない事業」、「やりたいけれどやれない事業」として最終的には排除される傾向があるのだが、その社会的便益を総合的に計量して数値化できることで、劇場音楽堂等が社会機関(Social Institution)としての社会的認知を獲得し、ダッチロール状態の社会の健全化に大きな公共的役割の期待できるステータスを得ることができるのではないか。まさに、館長就任時から言い続けてきた「社会機関としてのアーラ」である。「ハコモノ」と揶揄されて、税金の無駄遣いとされてきた劇場音楽堂等を「社会機関」として成立させるという価値の逆転を可能にする第一歩を、いまこそ踏み出すべきであると私は強く主張したい。
ちなみに先日、文化庁の文化審議会文化政策部会で、一億総活躍社会の文化庁版施策の三本柱の一つとしてプレゼンした折のパワーポイントの社会的投資回収率のシートは以下の通りである。
日本劇団協議会の理事として、私は劇団と地域劇場とのリレーションシップを強化するためのエビデンス測定を進めようとしている。社会的インパクト投資研究の第一人者である慶応大学の伊藤健先生、日本財団社会的投資推進室の藤田滋氏、専門会員選定の私の窓口になってくださっている若き研究家であり、起業家である幸地正樹氏と日本劇団協議会の調査研究部会のメンバーで、全国の3事例を取り上げてその社会的便益を実証して、社会的投資インパクトの全国的なムーブメントの契機にしようと考えている。日本の、政府自治体の劇場政策のみならず、文化政策の「政策根拠の見える化」への、ようやく扉の前に立つことができると考えている。