第179回 世界劇場会議国際フォーラム2016 in 可児。

2016年2月29日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

世界劇場会議国際フォーラム2016 in 可児が、2月12日、13日の両日、可児市文化創造センターalaで開催され、延べ200人を超える全国からの皆様に好評のうちに幕を閉じました。熊本県立劇場館長に就任された国際政治学者の姜尚中氏も見えました。開場前に話をということで、アーラの経営などについてお話ししました。

事例報告では、仙台富沢病院における認知症患者さんへの演劇的な治療効果に改善がみられるとの東北大学医学部の藤井教授からの報告、ホームレスへの就労支援の演劇ワークショップを行っているNPO法人アートマネジメントセンター福岡の糸山裕子さんの報告、認知症の介護者への演劇ワークショップを岡山・和気町でやっておられる青年団俳優の菅原直樹氏の報告、障がい児と健常児を混在させた舞台創造をしているインクルーシィブアーツの金沢・テンシーズの黒田百合さん、急遽報告することになったマンチェスター・カメラータのニック・ポンシロ氏の音楽を使った高齢者プログラムと多くの事例を参加者と共有しました。

また、英国芸術評議会北西部支部評議員のリー・コナー女史、英国随一と評されるウエストヨークシャー・プレイハウスの経営の基礎を、ジュード・ケリー氏とともにつくった元経営監督で英国の大物アーツコンサルタントであるマギー・サクソン女史、ウエストヨークシャー・プレイハウスのクリエイティブ・エンゲージメント部長のサム・パーキンス女史、日本劇団協議会会長の西川信廣氏、アートサポートふくおか代表の古賀弥生さん、厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部企画課自立支援振興室長の道躰正成氏によるシンポジウムも、大きな展開のある実り多いものとなりました。

「点から線へ」を実感した国際会議でした。今度は、さらにアクセルを踏み込んで、「線から面へ」とアンソニー・ギデンスの「ポジティブ・ウエルフェア」の拠点施設へと劇場音楽堂等を進化させ、社会的認知を得ることで文化予算の削減に歯止めをかけ、文化政策こそが成熟社会の最重要施策であるとの普遍的な認識に至ることを目指します。

以下に、当日の基調講演を採録し、また世界劇場会議の前週の「館長ゼミ」で第三者視点から基調講演を分析報告してくれた大垣市文化事業団の西田充晴氏のリポートも併載しました。あわせてお読みいただければと思います。

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世界劇場会議国際フォーラム2016 基調講演

本日は、多くの皆様に「劇場が社会に何ができるのか」、さらには「社会は劇場に何を求めているのか」に対する私の考えをお話しできることを心から感謝いたします。少しの時間、お付き合いください。

およそ25年間の演劇評論家としての生活に区切りをつけて、地域劇場を東京の劇場経営を相対化できる場としてデザインしようと考えて、全国をくまなく調査し提言し始めたのは、1990年代に入ってからでした。40代になっていました。その頃、東京の演劇はマスメディアでは「小劇場ブーム」と言われていましたが、私にはそれらの舞台がまったく演劇的だとは思えず、ひどく衰弱したものであることに失望していました。毎日、劇場に出かけて夜遅くに帰宅する生活は一変しました。1年の半分は全国各地に出掛けて、地域演劇と劇場経営の実態、そして折からの自治体立の「ホール建設ラッシュ」でしたから、その建設計画などを実地調査して、2ヶ月に一度、中央省庁の官僚から地方自治体の職員、研究者、メセナ企業関係者、演劇人、学生たちが集まり、私が収集してきた情報をシェアする舞台芸術環境フォーラムという任意団体を発足させました。

それらの報告は、地域に出るにあたって12本にあった連載のうち1本だけ残しておいた雑誌『テアトロ』の「50―50」(フィフティ・フィフティ)という連載に書き下ろしていました。4年間にわたったその連載は、1997年に『芸術文化行政と地域社会―レジデントシアターへのデザイン』というタイトルの一冊にまとめています。その中で私は「演劇は私的な欲求を充足させる財であると同時に、福祉、教育、保健医療、保育などの地域社会が抱える諸問題にかかわり、その解決のための媒介的役割を果たす社会的価値財でもあるとの認知を促して地域社会と行政に意識の転換を求めることであり」、「舞台という成果への『芸術的価値』のみを絶対的な価値として、それ以外のたとえばアウトリーチ活動にかかわる『社会的価値』を軽視しがちな従来の演劇の在り方に変革を迫るものである。いわば、芸術を聖域化する偏狭な考えからの、アーチスト自身の解放と言える」と書いています。

この一文の背景には、1995年1月の阪神淡路大震災の際に、「神戸シアターワークス」という団体をつくって「急性ストレス障害に悩む子供たちの心のケア」と「仮設住宅で孤立を深める中高年のコミュニティづくり」を演劇的な手法で行った4年間の体験があります。また、その前年に長崎で出会った自閉症を含む学習障害児たちによる「のこのこ劇団」の、当時小学4年生だった「あゆみちゃん」との出会いと交流がありました。また、彼らを指導していた劇団休憩時間の川口淳一氏のそういった仕事への情熱に触れたこともありました。彼らの年に一度のクリスマスの日の長崎医療技術短期大学の体育館で上演する10分程度の舞台は、1年間がかりのプロセスを考えれば、その社会的評価は、その頃世界的な評価を得ていた蜷川幸雄さんの演出する舞台と等価であると深く心を動かされました。いま考えると、この時の『芸術文化行政と地域社会』の一文が包摂型劇場経営のアーラの原点であったと思います。地域劇場の社会的・公共的役割への関心は、そうして私の中で次第に大きく膨らみ、私の生涯をかける仕事と使命となったのです。 

その直後に出会ったのが、昨年3月に私どもが業務提携することになるWYPだったことを申し添えておきます。芸術監督のジュード・ケリーさんと経営監督のマギー・サクソンさんが創り上げたWYPの「劇場と地域の共生関係」は、劇場が多くのリーズ市民で賑わい、地域社会にしっかりと根を下ろしていることを確信させてくれました。私が構想していたレジデントシアターのほとんどすべてがそこにありました。とても驚きました。と同時に、WYPから「お前の進もうとしている方向は間違っていない」と励まされたようにも感じました。その後、本日ご招待しておりますマギーさんをはじめWYPからは多くのことを学びました。

さて、1997年から6年間、私は「北海道劇場計画」に関わることになります。知事交代によって計画は凍結され、頓挫することになります。しかし、その時の劇場経営と地域経営の融合という命題は、ダウンサイジングしてアーラの経営に生かされることになります。途中、県立宮城大学・大学院で、劇場が地域住民の生活に深くかかわるためにはどのような組織と経営を施すべきかのDNAを学生や院生に移す仕事をしたのち、2008年に私は可児市文化創造センターalaに着任することになります。その年から、可児市文化創造センターの社会包摂プログラムである「アーラまち元気プロジェクト」が始まります。当初は年間267回、市民3873人がアクセスしました。

アーラでまず始めたことは、それまでの経営手法を180度大転換することでした。ひとつは、3200万人という巨大な圏域人口を前提にしてしか機能しない東京の劇場経営とマーケティングの手法を見直すことでした。情報を一方向で出来るだけ大量に流すという広報宣伝と、単なるセリングでしかないチケット販売の方法をすべて排除して、鑑賞者開発と支持者開発と社会包摂事業の好循環による劇場の社会的存在価値の高度化を実現するコーズ・リレイテッド・マーケティング(社会貢献型マーケティング)の採用と、インターネットを活用したチケッティングと、それを活用した「バースディサプライズ」等の新規サービスの導入、さらには市民のライフスタイルにマッチした革新的なチケット・システムの導入などですが、後者は本日の本題から外れますのでここでは割愛します。

コーズ・リレイテッド・マーケティングは、鑑賞者開発、愛好者開発という近視眼的な劇場課題の解決のための経営手法ではなく、その劇場が、芸術文化の社会包摂機能を発揮して地域社会の課題解決に向かうことで、劇場の存在自体の社会的ブランド力を高度化し、劇場の支持者や協働者を生み出し、「一票を投票する」ようにチケットを購入するというエシカル・コンシューマー(倫理的・道徳的な消費者)としての鑑賞者を開発するという、いわば中長期的な劇場経営を視野に入れた戦略と言えます。更に言えば、人間の趣味嗜好は変幻極まりないものです。したがって、趣味嗜好に依拠する観客という存在は、移ろいやすく、浮気者で、捉えどころのない存在です。しかし、健全な地域社会づくりに貢献する劇場への支持は、市民の確固たる生活信条や信念や価値観に依拠するものであり、そう簡単に変わるものではありません。安定経営の原則のひとつには、一度に大きな買い物をする顧客よりも、何年も繰り返し反復購入をしてくれる継続客をいかに生み出すかにあります。したがって、有名俳優やタレントに頼った一過性の集客よりも、継続客たる支持者をどれだけ幅広く生み出すかが中長期的に安定した経営を実現することになります。そのような経営安定化のためのコーズ・リレイテッド・マーケティングの起点が、芸術的評価の高い素晴らしい舞台ととともに、社会課題に対応する包摂的事業の実施であることは言うまでもありません。

と、ここまでは「劇場は社会に何ができるか、社会は劇場に何を求めているか」という本題の前提になります。しかし、ここまでで今回の命題の一部は皆さんには透けて見えているのではないかと思います。

ここ数年、私には気になることがあります。ノーベル経済学賞のアマルティア・セン教授やジョセフ・スティグリッツ教授をはじめとする多くの経済学者、あるいは財政学者、公共政策学者から「幸福」という言葉が頻繁に発せられていることです。日本でも、ノーベル経済学賞に最も近い日本人と言われながら一昨年9月に残念ながら亡くなった宇沢弘文先生は、「経済学は人間を幸福にしたのか」という問いを厳しくご自分に課しておられました。私のような門外漢は、「物欲の充足を利己的に追求する人間」である「経済人(ホモ・エコノミクス)」が社会を発展させる、あるいは「人間の大半を支配するのは自己利益だ」という、いわゆる「合理的選択理論」という非現実的な理論をやみくもに信奉しているのが経済学者であると、一面的な理解をしていました。したがって、経済学者が「幸福」という言葉を頻繁に発することを奇異に感じていたのですが、考えてみれば「経済学の父」と言われるアダム・スミスも、『国富論』(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)に先行する『道徳感情論』(The Theory of Moral Sentiments)で「いかに利己的であるかのように見えようと、人間の本性の中には、他人の運命に関心を持ち、他人の幸福をかけがえのないものとするいくつかのプリンシプルが含まれている。人間がそれから受け取るものは、それを眺めることによって得られる喜びの他に何もない」と書いているのです。また、「人間の心的傾向を大分類すると、自己愛と他者への思いやりになる」とも書いているのです。

だとするならば、合理性を尊ぶ経済学の先学がことほど左様に「幸福」という、いささか情緒的な言葉を頻繁に発することの背景には、尋常ではない、看過することのできない事態が進行しているという研究者としての現状認識と、人間としての倫理的正義感からの強い危惧があるのだと、私は思っています。その危機感をもたらしているのは、言うまでもなく先進諸国の政治経済政策が新自由主義経済思想に偏り、格差拡大や社会の分断化を著しく進行させている事態への危惧であることは間違いありません。宇沢先生はもちろんのことですが、それら先学たちの危機感は学問としての経済学の方向性に対する異議申し立てというよりも、一人の生活人としての、人間的な倫理観・正義感から発しているという切迫感を感じさせます。先学の研究者が発している「幸福」は、HAPPINESSというよりもWELFAREに近い意味合いなのではないかとも感じています。この点に対する論及はここで止めておくことにします。「物欲の充足を利己的に追求する人間」を無原則に許容して、そのあくなき追求が経済を成長させて社会を繁栄させるという自由奔放な経済理論はアダム・スミスの『国富論』に発するとされていますが、その前に、「貧しさの真の悲劇は、希望を持つことができないことだ」(The real tragedy of the poor is the poverty of their aspirations.)と記した『道徳感情論』があり、『国富論』刊行後の5年後と自身の死の直前にも加筆改訂されて版を重ねていることが何を意味するか、と皆さんに問いかけることにとどめます。

さて、芸術的評価のみが問われたかつての日本の芸術界や劇場界で、社会とのリレーションシップ形成が初めて重要な評価軸としてフォーカスされたのは、2011年2月に閣議決定された「文化芸術の振興に関する基本方針」、いわゆる「第三次基本方針」で、「文化芸術は、子ども・若者や、高齢者、障害者、失業者、在留外国人等にも社会参加の機会をひらく社会的基盤となりうるものであり、昨今、そのような社会包摂の機能も注目されつつある」 と「社会包摂」という文言が初めて文化政策に登場して「このような認識の下、従来、社会的費用として捉える向きもあった文化芸術への公的支援に関する考え方を転換し、社会的必要に基づく戦略的な投資と捉え直す」ときわめて大きな政策転換がなされました。その方向性は、その後の「劇場法 前文」、劇場法施行のための「大臣指針」にも踏襲され、劇場音楽堂等は「社会参加の機会をひらく社会包摂の機能を有する基盤として、常に活力ある社会を構築するための大きな役割を担っている」と位置づけられて、より具体的に「教育機関、福祉施設、医療機関等の関係機関と連携・協力しつつ、年齢や障害の有無等にかかわらず利用者等の社会参加の機会を拡充する観点からの様々な取組を進めること」としています。

さらに昨年5月22日に閣議決定された「第4次基本方針」にも、その文言はそのまま引き継がれています。私としては、劇場や芸術団体が国民市民にとっての「真の公共財」になるためのスタンダードが20年を経てようやく示されたという感慨を持っていますが、同時に劇場もアーチストも、時代にさらされ、社会に試される時を迎えることになったとも考えています。それは、国民や市民にとって、劇場が健全な社会生活を送るために必要であるとの社会的認知を得るためにどうしても超えなければならない試練だと私は考えます。「変化」には、摩擦と痛みと苦悩が伴います。しかし、決して強いものや大きなものが生き残るのではなく、変化しつづけるものだけが生き残ることを許されるのだということを、私たちはもう一度ここで噛みしめなければなりません。

その「第三次基本方針」、「第四次基本方針」には、ともに「成熟社会」という時代認識が登場します。「第三次基本方針」では「文化芸術は,成熟社会における成長の源泉」という使われ方をしています。しかし、「成熟社会」とは、成長が約束されている「少年期」、「青年期」の社会とは違い、「壮年期」に踏み込んだ社会のことを指します。無理に経済成長優先を至上命題にすれば、様々な歪みや痛み、すなわち社会矛盾が噴出することになります。「成熟社会」においては「経済成長優先」から「生活重視」へと政策を転換し、自己肯定感による生きる意欲に満ちた人間的な生活を送れる人々の歓びの醸成と、社会的分断のない生活環境を整えることが最重要課題となります。「第四次基本方針」の「序文」には、「経済成長のみを追求するのではない,成熟社会に適合した新たな社会モデルを構築していくことが求められているなか,教育,福祉,まちづくり,観光・産業等幅広い分野との関連性を意識しながら,それら周辺領域への波及効果を視野に入れた文化芸術振興施策の展開がより一層求められる」とあります。これは明らかに「第三次基本方針」における「文化芸術は,成熟社会における成長の源泉」から、一歩も二歩も踏み込んだ時代認識になっています。少しばかり腰の引けた書きっぷりですが、「経済成長のみを追求するのではない,成熟社会に適合した新たな社会モデルを構築していくことが求められている」中で、「幅広い分野との関連性を意識しながら,それら周辺領域への波及効果を視野に入れた文化芸術振興施策の展開」して、新しい社会モデルを、すなわち「新しい価値」を構築することが文化芸術及び劇場には期待されているということになります。

さきに私が提起したコーズ・リレイテッド・マーケティングの際に述べた、エシカル・コンシューマーの登場も「成熟社会」の大きな特徴であることを申し添えたいと思います。ローマクラブが1973年に『成長の限界』を提言したのと同じ年に「成熟社会」という視点を提起した物理学者で未来学者でもあるデニス・ガボールは、「成熟社会は量的拡大のみを追求する経済成長が限界に至り、きわめて困難となり、そして終息に向かうなか、精神的な豊かさや生活の質の向上を重視する、平和で自由な社会となる」と書いています。また、1978年に経済企画庁国民生活局が編纂した『21世紀の国民生活像―人間味あふれる社会へ』という報告書には、「これまでのような物質的生活向上欲求ではなく、非物質生活的、非生計的(non-subsistence)欲求、つまり文化的な欲求が大きな意味を持つようになった。そして今後ますます、文化的なものが社会を変貌させるうえで重要な役割を果たすであろう」と書かれています。

しかしながら、私たちの目の前に広がるのは、所得格差の常軌を逸した拡大により分断化される社会です。「社会的同質性」が民主主義の根幹であるとすれば、クリントン政権の労働長官を務めたロバート・ライシュが言うように、格差の拡大はその分断化であり、「民主主義の危機」であるとも言えます。また、「所得格差」は、社会疫学の権威であるハーバード大学のイチロー・カワチ教授やロンドン大学のミシェル・モーマット教授の知見によれば、それは「健康格差」を必然とし、自己肯定感の喪失による「希望格差」となり、私はさらに「いのちの格差」にまでなっていくと考えています。私たち劇場関係者には、制度を変えて所得格差を解消する政治的権限はもとよりありません。しかし、自己肯定感、自尊感情の喪失による「生きる意欲」の減衰には、文化芸術の社会包摂機能で十分に対応できると、私は確信しています。

可児市文化創造センターの「アーラまち元気プロジェクト」では、毎年40人前後の中途退学者で推移していた状況を3年間で9人に減少させ、就学援助を受給している生徒とその家族、一人親家庭で児童扶養手当を受給している子とその家族を劇場に招待して家族の間に会話が生まれるような「私のあしながおじさんプロジェクトfor Family」を実施するなど、様々な特筆すべき成果を上げています。そして、その成果と評価を起点としたコーズ・リレイテッド・マーケティングにより、8年間で、可児市文化創造センターalaの社会的ブランド価値は高まり、可児市内外での評価と承認を得るに至っています。観客数は就任前年から368%増、パッケージチケットのパッケージ数も308%増なっています。これこそが、コーズ・リレイテッド・マーケティングの成果です。

それでは、ここで度々言われている「文化芸術の社会的包摂機能」とはどのようなものなのでしょうか?

ここ数年、日本の文化法制や文化に関する公式文書には「社会包摂」という言葉が頻繁に登場しています。前述したように、2011年2月の「第三次基本方針」、翌年6月に成立した「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」、そして2013年3月に告示された「大臣指針」、昨年5月に閣議決定された「第四基本方針」にも、文化芸術の社会的効用として「社会包摂」という文言が使われています。このように「社会包摂」という文言が、文化の公的な文書に頻繁に使われるようになった背景には、社会の激しい変容への「処方箋」として、いわばリスクヘッジとして、従来は芸術的価値のみに特化されていた評価のウイングを広げて、文化芸術や劇場の社会的効用や社会的機能に期待する政策理念への傾斜があるのではないかと私は思っています。

「社会包摂」というキーワードを、さらに分析すると「コミュニケーション」というタームが浮上してきます。コミュニケーションというと、話し手に関わる機能のように思えますが、実は受け手の知覚によっているものです。受け手の価値観、期待、要求によってのみコミュニケーションが成立することは、ピーター・ドラッカーの名著『マネジメント』に詳しく解説されています。そしてコミュニケーションは、一方向性を特徴とするインフォメーション(情報)とは、補完関係にありながらも峻別されるべきものとドラッカーは言い切っています。つまり、コミュニケーションとは、お互いに価値を交換する相互関係のあり方であり、それによって「学び合い」や「成長」を相互にもたらす対話の作法といえます。それが、さまざまな利害を調整して、社会的・階級的な合意による包摂性の高い社会を形成するという論理になるのです。

コミュニケーションがそのような社会的機能を果たすのは、「想像力」と「創造力」という、脳科学的には前頭連合野がつかさどっている「社会脳(social brain)」が働くからです。アメリカの哲学者アレスディア・マッキンタイアは、「人間は物語(narrativeであり、storyではない)を紡ぐ存在である」と言っています。「思いやり」、「心くばり」、「気づかい」、「空気を読む」という他者への対応は、この社会脳によるものです。想像力と創造力で「物語」を紡いで、相手の立場を慮って行動を選ぶという機能が、その「社会脳」にあるのです。

つまり、多様な経験則が「社会脳」を発達させながら、人間は、アリストテレスの言うところの「社会的な動物」になっていくのです。その「社会脳」の機能への期待が、さまざまな利害を調整して、階級的障壁や身体的・精神的障害や社会的障害とも言える多様な格差を乗り越えることを可能にすると考えられるのです。したがって、社会包摂という政策理念は、「人間への期待」が根底にある概念であると言えます。人間という存在を全面的に信頼する立場に依拠している考え方です。文化芸術の鑑賞の局面で起こる感動や共感という「化学反応」もそこから生じる感情です。私がたびたび、文化芸術は「一部の愛好者や特権階級の占有物ではない」、すべての「普通の人々」にこそ必要である、と語るのにはそのような根拠があるからです。「文化芸術」とは、劇場やホールや美術館の中だけで起こるものだけを指すのでは決してなく、原理的にはすべての生活局面、「普通の人々」の日々の営みにこそ必需な財であると私は強く考えています。 

英国の社会学者であるアンソニー・ギデンスは「ポジティブ・ウェルフェア」(積極的福祉)という概念を提唱しています。彼は「ウェルフェアとは、もともと経済的な概念ではなく、満足すべき生活状態を表す心理的な概念である。したがって、経済的給付や優遇措置だけではウェルフェアは達成できない」と述べ、「福祉のための諸制度は、経済的ベネフィットだけでなく、心理的なベネフィットを増進することも心がけなければならない」とも述べています。先に私が経済学者の言う「幸福」は、HAPPINESSというよりもWELFAREに近い意味合いなのではないかと言ったことと呼応する概念提起です。したがって、劇場こそが地域における「ポジティブ・ウェルウェア」の拠点施設であり、だからこそ税金で設置し、運営し、支援する政策的根拠があるのだと、私は思い続けているのです。

現在の日本の財政状況では、給付金行政には限界があることが見えています。一方で、全国にはおよそ2200の劇場ホールがあり、その大半が事業費の削減で機能せず、ほとんど放置されています。さらに、その後年度負担が自治体財政を圧迫しています。省庁のまたがる施策は無理であることを承知の上で、全国の劇場ホールを「心理的なベネフィットを増進する」拠点施設として、総務省や厚生労働省が文化庁と連携して再生を促し、利活用することにより給付金行政の限界を補完する可能性はないのかだろうか。全国の公立の劇場ホールは間違いなく「市民の財産」であり、「国民の財産」です。包摂型事業への補助とコミュニティ・アーツワーカーの配置、あるいは派遣を制度化することで、無駄の象徴のように思われている全国にある劇場ホールを「心理的なベネフィットを増進する」拠点施設へ変容させることを政策提案したいと思います。

社会的疎外感をケアし、社会的孤立を回避して、「何かのコミュニティの一員」となることで人間は社会的存在となり、成長を約束されます。そして、多様な価値を包摂できてこそ、懐の深い豊かさを実現し、健全で成長力のある社会を実現できるというのが「社会包摂」の理念であり、経済成長優先よりも生活の質を重視する「人間的な成長」と「豊かさ」のある社会形成のための理念こそが「社会包摂」の考え方なのだと私は考えます。社会的弱者を救済するための「ほどこし」という「社会包摂」への誤解はここで糺しておかなければなりません。文化芸術は、コミュニケーションの作法が内包された包摂性の高い行動様式であり、その機能を社会に反映させてこそ、文化芸術の「公共性」は担保されると断言しておきたいと思います。

劇場音楽堂等にも、社会的矛盾の歪みがいたるところで露呈して来ている今だからこそ、そのような生活重視の政策拠点として、健全なコミュニティ形成の機能を発揮することが期待されていると考えています。性で差別しない、年齢の違いも、肌の色の違いも、職業の違いも、障害の有無も、宗教や宗派の違いも、そして忘れてはならないのが富める者も持たざる者も、ありとあらゆる人々の個人史と、それによって培われた価値観を、劇場は、そのすべてが受け入れられ、肯定される場所です。文化芸術と劇場には、そのようなユニバーサルデザインの社会構築に向かう社会的機能があるのです。その意味で、劇場は「社会の分断化」へのリスクヘッジとなる存在であり、いわば「民主主義の学びの場」とも言えるのではないでしょうか。「成熟社会」における文化芸術と劇場の期待される役割とは、そのようなものであると私は考えています。「成熟社会」における新しい社会構築のための中核施設という使命が期待される、と考えています。したがって、私を含む劇場ホールで働く職員は、決して興行師のような利潤の最大化を使命とする仕事をしているのではなく、人間の日々の生活に対する大変重い責任を負う、誇り高い社会的使命を持つ任務に携わっていることを自覚しなければならないのです。私たちが社会に出来ること、社会が私たちに求めていることは、それに尽きるのではないかと考えます。

最後に、私には夢があります。

いまから18年前にウエストヨークシャー・プレイハウスに出会ったとき、「このような劇場が日本に10か所もあれば、日本に生きづらさを感じている人は少なくなるだろう」と強く思いました。たとえば、社会的孤立による年間3万人を越えていた自殺者、そして多くの犯罪者を思い止まらせることができると思いました。その思いが、このアーラを創り上げる原動力でした。

いまでも、私のその時の思いは何ら変わっていません。

私の生きている間に、その夢は実現しないでしょうが、すべての国民市民にとって、劇場が生きる拠り所になるためには、アーラの劇場経営の理念への、全国の行政関係者、劇場関係者の共感の輪が拡がれば、20年先、30年先に、その夢はきっとかたちとなって人々の前に現れるでしょう。

その時には文化政策は、健全な社会構築のための重要政策になるに違いありません。

私たちの「今日」は、その日のためにこそあるのだと思い続けています。

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世界劇場会議国際フォーラム2016・基調講演について

2016.01.25館長ゼミ/報告:西田充晴

●衛館長の特異性は、その思想的拡がりと奥行きの深さにあると思います。

私は衛館長の本意を間違えて理解している人たちとしばしば出会いますが、その理由は、やはり奥行きの深さにあるのではないか、と思います。

今回の「基調講演」につきましても、衛館長の思想的全体像が見えていないと、なかなかその真意を理解できないのではないか、と思われます。

そこで、まずは衛館長の思想をチャート化してみたいと思います。

1. 衛館長の思想(=地層)…《図1》

●衛館長の思想を見誤る典型的なパターン

? 衛館長=斬新なマーケティングの人 ← 第?層しか見えていない!

? 衛館長=社会包摂を提唱している人 ← 第?層までしか見えていない!!

●衛館長が格闘している真の(深層の)相手は⇒ 【いのちの格差】

  衛館長の根底にあるミッションは・・・

? マーケティングによって劇場を賑やかにすること、でもなく、

? 社会包摂的事業を華々しく展開すること、でもなく、

 それらは全て、戦略的・戦術的な手段であって、あくまでターゲットは・・・

?【いのちの格差】を終わらせること!!

●【いのちの格差】・・・ 

 格差というと、すぐに「所得格差」を連想するが、【いのちの格差】とは、「所得格差」「健康格差」「希望格差」などを含む、包括的な概念で、「生きる意欲の減衰」を指す。

 つまり、【いのちの格差】の克服には、(たとえば所得の再分配などの)経済政策だけでは片手落ちである。

●【いのちの格差】を克服するには・・・

 ・市場システムには任せられない = むしろ現在の新自由主義的競争こそ、その原因

  ⇒ 公共劇場にこそ、やれる仕事があるのではないか?

      だからこそ、公共劇場は、目先の劇場課題に終始するのではなく、社会課題に目を開かないといけない。

2. 衛館長の経済思想(基調講演P3?P6)

●衛館長の試み=【経済】を、もう一度、人間の手に取り戻そうとする試み!!

 ※衛館長の思想の根底には、【経済】観の根本的な変革があります。

・世間一般の人の【経済】観=弱肉強食

  「モノ」と「カネ」が都度「ヒト」の手を離れてグルグルと自己循環している無機質かつ冷酷なシステムだが、そのシステムにうまくのっかり「勝ち組」になれれば「モノ」と「カネ」が手に入ってハッピーになれる。が、しくじって「負け組」に転落すれば、「モノ」と「カネ」を失って不幸になる。

・衛館長の【経済】観

  仮借なき市場原理主義的競争が、【いのちの格差】を招いている。…《図2》

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●衛館長の思想を批判・否定することは誰にもできません。私たちはただ【応答】を迫られるだけです。つまり・・・

  ・選択肢?:いまの時代、いまの世の中をそのまま受け入れて、傍観する

                         ⇒衛館長の言葉は届きません

  ・選択肢?:時代と世の中に抗ってみる、私たちにはまだ、やれることがある

⇒衛館長の言葉が届きます

●私たち(公共劇場で働く人たち)にまだ何か、やれることがあるとするなら、

それは如何なるアプローチによってか・・・

  ↓

3.社会包摂(基調講演P4?P8)

●・・・・・・その前に、衛館長の標的を、よりクリアにしてみます。

・アメリカ的、あまりにアメリカ的な新自由主義思想は、日本の風土に根付かない。

  ⇒日本の場合は・・・ 日本型新自由主義= 新自由主義の仮面をつけた全体主義…《図3》

 ・「逆・全体主義」・・・ 旧・全体主義=包摂することによって支配する

            逆・全体主義=排除することによって支配する

                    ※酒井隆史『暴力の哲学』(河出書房新社、2004)

 ・新自由主義のバイブル

  ○ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』(1962)

    根本原理【自由を守るためには、権力は分散させなければならない。】

  ○F.A.ハイエク『隷属への道』(1944)  

    根本原理【人間の知性には限界がある。知性による管理主義は全体主義に至る。】

   ⇒新自由主義思想にとって最大の敵は、全体主義的国家だった、はずなのに・・・

 ◎日本型新自由主義では、本来、水と油であるはずの自由主義と全体主義がねじれてハイブリッドに結合している。新自由主義の仮面をつけた逆・全体主義。

⇒悪い意味での「和魂洋才」

●社会包摂の背景・・・

P6「社会の激しい変容への『処方箋』として、いわばリスクヘッジとして、従来は芸術的価値のみに特化されていた評価のウイングを広げて、文化芸術や劇場の社会的効用や社会的機能に期待する政策理念への傾斜があるのではないか」

●衛館長の思想=人間性への信頼=【いのちの格差】を超克できる本源的可能性

・P7「コミュニケーションとは、お互いに価値を交換する相互関係のあり方であり、それによって『学びあい』や『成長』を相互にもたらす対話の作法といえます。それが、さまざまな利害を調整して、社会的・階級的な合意による包摂性の高い社会を形成するという論理になるのです」

 ・P7「コミュニケーションがそのような社会的機能を果たすのは、『想像力』と『創造力』という、脳科学的には前頭連合野がつかさどっている『社会脳』が働くからです。(中略)想像力と創造力で『物語』を紡いで、相手の立場を慮って行動を選ぶという機能が、その『社会脳』にあるのです」 ※ミラーニューロン

 ・P7「その『社会脳』の機能への期待が、さまざまな利害を調整して、階級的障壁や身体的・精神的障害や社会的障害とも言える多様な格差を乗り越えることを可能にすると考えられるのです。したがって、社会包摂という政策理念は、『人間への期待』が根底にある概念であると言えます」

 ※ちなみに、芸術が「想像力」と「創造力」に関わるものであることは言うまでもない。

⇒「社会包摂」という理念の根底には、人間には本来、【いのちの格差】を克服する力が備わっている、という信念がある。

さて、それでは、具体的な施策として、

●積極的福祉政策としての文化政策=ポジティブ・ウェルフェア

 ・経済的給付や優遇措置だけでは片手落ち=社会的投資を意識した政策

 ・P7「ウェルフェアとは、もともと経済的な概念ではなく、満足すべき生活状態を表す心理的な概念である」アンソニー・ギデンズ『第三の道』(1998)

   ⇒公共劇場は、地域における「ポジティブ・ウェルフェア」の拠点施設。

●「アーラまち元気プロジェクト」

【提案】遊休化している劇場の再生・利活用・・・

 ・社会包摂型事業への補助、コミュニティ・アーツワーカーの配置あるいは派遣の制度化

  ⇒「心理的なベネフィットを増進する」拠点施設へ変容させていく

3. 創客マーケティング⇒社会貢献型マーケティング(基調講演P3?P4)

●創客マーケティング⇒社会貢献型マーケティング

・社会貢献型マーケティング・・・

P3「コーズ・リレイテッド・マーケティングは、鑑賞者開発、愛好者開発という近視眼的な劇場課題の解決のための経営手法ではなく、その劇場が、芸術文化の社会包摂機能を発揮して地域社会の課題解決に向かうことで、劇場の存在自体の社会的ブランド力を高度化し、劇場の支持者や協働者を生み出し、『一票を投票する』ようにチケットを購入するというエシカル・コンシューマー(倫理的・道徳的な消費者)としての鑑賞者を開発するという、いわば中長期的な劇場経営を視野に入れた戦略」

4. さて、大垣のこれから・・・

●大垣版の「まち元気プロジェクト」、その構想

 28年夏頃までに全体の構想をまとめて、29年度より実施できればいいのだが・・・