第178回 「社会包摂」は社会的弱者への「ほどこし」では決してない。
2016年1月24日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
「私のあしながおじさんプロジェクト」は、私が館長に就任した2008年から続けている事業で、市内の中高生を地元企業・団体・個人からの一口3万円の寄付で希望するアーラの主催公演に招待して劇場体験をしてもらおうとするものです。対象事業の年度はじめに協賛企業・団体の方々に参加していただいて、応募してきた中高生にチケットの贈呈式を行います。実は、私は「団体鑑賞」というものの有効性を認めていません。「子どもの頃から良い音楽を聴かせれば良い子が育つ」と無邪気に信じている大人を見かけることがありますが、それは大人が勝手に思い込んで良かれと思って無料の鑑賞体験を提供している、いわゆるパターナリズムというものです。仮にそれだけで「良い子」が育つなら世話ありません。自分がそうだったから今の子どもたちもそうだろう、という邪気のなさには呆れてしまいます。また、そのような「成功体験」もないのに、学校鑑賞教室の予算の割り当てがあるとか、民間からの寄付があると、自動的に団体鑑賞をしたがる教育委員会の硬直化した思考回路にもいささか呆れ果てています。
「私のあしながおじさんプロジェクト」は、希望する公演のチケットをプレゼントされて、自分の席を探すところから劇場体験が始まります。これは劇場体験のワークショップなのです。鑑賞後に「あしながおじさん」たちに感想や感謝の手紙を書いてもらい、それを企業・団体・個人にフィードバックするのですが、彼らがその体験でどれだけ胸を膨らませているかが良く分かります。クラシックや演劇やジャズとの素晴らしい出会いができたかが、その「サンキューレター」には連綿と綴られています。これは、10年後のクラシックファン、演劇ファン、アーラのファンを創るという意味で、将来にわたっての鑑賞者開発という「劇場課題」の解決に位置付けられている事業です。
昨年4月からは「私のあしながおじさんプロジェクトfor Family」を始めました。教育委員会と連携して「就学制度」を受けている生徒とそのご家族、市役所と連携してひとり親家庭で「児童扶養手当」の支給対象である本人とそのご家族を対象にして、同様のファンドレイジングでご家族の皆さんを招待するプロジェクトです。「皆さんのホールでチケットを完売することはないでしょうから、無駄にしてしまう席をそのようなご家族のために提供する包摂型のチケットは明日からでもできるのではないですか」と、私は講演のたびに受講してくださっている皆さんに訴えています。ところがある自治体に伺った時に「そのような貧困家庭の人を無料招待しても将来の鑑賞者開発にはならないのでは?」という質問が出て、憤りを通りこして呆れてしまったことがあります。
「私のあしながおじさんプロジェクト」と「私のあしながおじさんプロジェクトfor Family」は、まったく違った目的で行っている事業なのです。前者は「観たい、聴きたい」と切望しながらチケットを購入するお小遣いのない中高生に地元の企業団体や篤志家の浄財で鑑賞の機会を提供している「劇場課題」に対応する事業なのに対して、後者は、親が朝から夜中まで働き詰めだったり、身体を壊してしまったりで、親子が顔を合わせる機会の少ないご家庭に音楽や演劇を一緒に鑑賞したという共通体験をもたらして家族の間にコミュニケーションを取り戻そうとする「社会課題」に対応する目的を持ったものです。市役所からのお知らせに「私のあしながおじさんプロジェクトfor Family」のチラシを同封して担当課から郵送してもらうのですが、当初は面倒なことをするなと感じていた担当課の職員も、届けられた「サンキューメール」を読んで気持ちが伝わったという実感を持つことが出来ています。
これは、「最後に笑ったのが何時だったかさえ思い出せない」というご家族の中心に演劇とか音楽という「一本の樹」を植えて、それを見上げながら語り合う時間を取り戻してもらおうとする事業なのです。この「劇場課題」と「社会課題」は峻別すべきだと、私は思っています。「社会包摂型事業」とはまぎれもなく後者であり、あわせてそのご家族が生きる意欲を持つことで、その家族個々の可能性を引き出すことでもあるのです。この個々のポテンシャルを引き出すということが「社会包摂」の目的であり、だからこそ包摂的な社会は懐の深い、健全で成長力のある社会構築という「新しい価値」を生むのです。
ところが「社会包摂」を社会的弱者への「ほどこし」と心得違いしている人間が少なくないのも現実です。上から目線で「社会的弱者」と言ってはばからない「ほどこし派」の論文を得々と学会で発表する大学教授や研究者もいます。福祉施設への包摂型事業を実施したものの撤退を余儀なくされた劇場もあります。「寄り添う」と簡単に言うのですが、包摂型事業を鑑賞者開発という「劇場課題」として取り組めば、参加者の人間としての尊厳を著しく損なうことになるのは明白なのです。また、そのような筋違いのコーディネイトをすれば、「演劇体験ワークショップ」のように、あらかじめ演劇をやってみたいという意志をもった受講者に対するので「こと」は簡単なのですが、中途退学者を三年間で劇的に激減させた県立高校でのワークショップのように、生徒の誰一人として「やりたい」というモチベーションをもっておらず、ワークショップ・リーダーが話を始めても床に寝転がって友達と話をしている、という具合なのです。
したがって、「社会課題」に対応するような社会包摂型のワークショップの場合に間違ったコーディネイトをすると「アーチスト」のプライドを著しく毀損してしまうリスクがあるのです。そのようなコーディネイトを平然とやってしまう劇場の担当者や大学の教員がいます。それだけ社会包摂型の事業はセンシティブなものであることをわきまえ、承知しているべきではないでしょうか。そのような間違ったコーディネイトをしてしまう要因の大半は、その人間の成熟度の低さにあります。また、社会包摂という成熟社会でのユニバーサル・デザインの社会構築のための理念を、社会的弱者を救済する、いわば「ほどこし」と上から目線で考えているそもそもの心得違いも大きな原因です。アーツマーケティングを、古色蒼然たる工業製品の、生産者主権に立った4P(Product製品・Price価格・Promotion宣伝広告・Place流通)で学生に教えているアーツマネジメントの教員もいるくらいですから、その程度のコーディネイトの誤謬は「朝飯前」なのでしょうが。
「社会包摂」という社会政策理念に基づいた劇場施策は、英国の社会学者であるアンソニー・ギデンスが提唱し「ポジティブ・ウェルフェア」(積極的福祉)という概念に準拠するものです。彼は「ウェルフェアとは、もともと経済的な概念ではなく、満足すべき生活状態を表す心理的な概念である。したがって、経済的給付や優遇措置だけではウェルフェアは達成できない」と述べ、「福祉のための諸制度は、経済的ベネフィットだけでなく、心理的なベネフィットを増進することも心がけなければならない」と書いています。包摂型事業で他者からの賞賛や承認を必要としている参加者の、人間としての尊厳や幸福追求の意欲を毀損してしまったり、コミュニティ・アーツワーカーとして関わってくれるアーチストの自尊心や誇りを傷つけてしまったりしては、そのプロジェクトが何の意味もなさないばかりか、誰にとってもマイナスにしか働きません。むろん、劇場にとっても、地域社会の健全構築にとっても負の連鎖に入ってしまうのは言を待ちません。
「社会包摂」とは、問題を抱えている人をケアすることには間違いないのですが、「癒す」ことなのかと言えばそうではなく、その人間に自尊感情や自己肯定感の生まれる契機をつくり、
その社会的存在のあり方に関わり、その可能性を引き出すことにあります。そのことで孤立しがちな環境を変化させることが重要なのです。孤立させないのはもちろんのことですが、自分の足でしっかり立てるようになる「機会」をつくることが肝要なのです。社会的孤立から救済することや孤立感を一時的に癒すことが「社会包摂」の使命ではありません。その人間の可能性を引き出して自己の承認欲求を充足させる「機会」をつくらなければ、その人間のポテンシャルは発揮できないし、「第四次基本方針」の「序文」にある「経済成長のみを追求するのではない,成熟社会に適合した新たな社会モデルを構築していくこと」を結果することには到底ならないでしょう。
簡略に言い切るならば、社会包摂の反意語である「社会排除」とは特定の環境下にある人間を文字通り排除して「戦力外」にしてしまうことであり、「包摂型社会」とは、個々人の能力に応じた社会的価値と人間としての尊厳を受容する寛容な社会のあり方であり、まさしくユニバーサル・デザインの社会構築への志向性を持つ考えであり、ローマクラブが『成長の限界』を提言したのと同じ年に「成熟社会」という視点を提起したデニス・ガボールの言う「成熟社会は量的拡大のみを追求する経済成長が限界に至り、きわめて困難となり、そして終息に向かうなかで、精神的な豊かさや生活の質の向上を重視する、平和で自由な社会」ということになります。癒しやほどこしという非生産的な政策概念ではなく、未来志向の建設的・生産的なポジティブ・ウェルフェアの社会理念であり、アブラハム・マズローが晩年に辿り着いた「欲求の五段階説」のさらに高次の「コミュニティ発展欲求」(Ethical)に裏打ちされた行動原理なのです。その意味では、社会の在り方と価値観の転換を視野に入れた、経済成長優先主義から生活重視への、経済に隷属するのではない、世界の中心に人間を据えた社会構築の理念とも言えるのです。
そのことで私たちは、劇場音楽堂等や文化芸術を人間が生きるうえでの必需財となる道程をたどり、愛好者や可処分所得の多い階層の独占物ではない文化芸術と劇場音楽堂等の未来を切り拓こうとするのです。芸術的評価の高い作品を創ることを至上命題として日本の文化芸術の世界は活動してきたし、素晴らしい成果も生み出してきたが、それだけでは真の「公共財」とは言えないという拭いがたい現実があります。私たちはあまりに「芸術的評価」という片輪走行だけに意識を傾注してきたのではないでしょうか。「芸術的評価」と「社会的評価」は車の両輪であり、その双方の好循環が劇場音楽堂等や文化芸術への国民的な支持や、市民の生活に豊かさと潤いをもたらす未来を創ると、私は確信しています。それだけに社会的評価をアウトカムする中心軸となる「社会包摂」への誤解が気になって仕方ないのです。