第177回 忘れられた、従業員満足。
2015年11月30日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
80年代になった頃、かつての消費性向が大きな曲がり角になり、従来型の大量生産大量消費によって生産コストを下げる方式の経済システムの限界が言われるようになりました。経営学の専門書や経済専門雑誌には、そのような経済システムを支え、その生産システムの根拠となった最大公約数的な「大衆」はもはや存在せず、多様化された社会にあって消費者のニーズは細分化されており、なかには「分衆の時代」という言辞まで使われていました。すなわち、消費者ニーズに合わせて商品や製品をカスタマイズ化する生産方式こそがこれからの生産性向上の道であり、「顧客満足」を高度化することで将来が約束されるといたるところで説かれていました。そのためにマーケティング・リサーチをして「市場(不特定多数の人々)の中で、共通の消費者属性(年齢・性別・職業・ニーズなど)を持っている集団」にセグメント(市場の細分化)して、細分化された各マーケットのニーズに見合った商品や製品のカスタマイズをすることで欲求を充足させて「顧客満足度」を上げるという生産手法が未来を約束する、というのがそれらの経済書に共通する論調でした。
しかし「顧客満足」というのは、言うまでもなく「期待度分の達成度」であり、売らんがために宣伝広告からセールストークまでで「期待度」を消費者が過大に膨らませると「達成度」が相対的に低下して「満足度」が毀損するという矛盾を持った考え方だったのですが、従来からの大量生産大量消費という経済システムの「常識」をブレークスルーするには、このような理論しかなかったのではないかと容易に想像はできます。この考え方の限界はそれだけにはとどまらず、生産者―消費者という二次元的な、すなわち一方が一方に成果物を供給するという一方向性は相変わらずであり、この経済システムは80年代終わりにドン・ペパーズとマーシャ・ロジャースの『ONE to ONE MARKETING』というインターネットを活用する三次元的・双方向性を持った生産者と消費者の関係を変えてしまう概念が登場し、まさに予言の書とでも言うべきリレーションシップマーケティング理論の登場によって新しい局面を迎えることになります。やがてWindows98の登場でインターネットがコモディティ化して、この双方向性を持ったマーケティング手法が様々な分野での必須のビジネスツールになって行きます。
この「顧客満足」が盛んに言われた時代に、あわせて提唱されていたのが「従業員満足」という言葉でした。「顧客満足」と「従業員満足」は表裏一体に語られ、「顧客満足」は「従業員満足」によって十全に完結するとまで書いたものまでありました。11月20日、アーラで行われた文学座との地域拠点契約事業の『再びこの地を踏まず―異説・野口英世物語―』のアフタートークで作者のマキノノゾミ氏と話したのですが、終幕近くに母親の労苦に支えられた英世が、もはや恩を返す母もなく、だから伝染病に苦しむ世界中の人々にその恩を返すのだ、というセリフがあって、私はその英世の考えを大好きな日本語である「恩おくり」ではないかとマキノ氏に尋ねました。私は何も野口英世のような偉人でなくとも、私たちが「働く」ということは誰かに育てられ、支えられた恩を次につないでいることであり、そのことによって人間は社会と関わっているのだと考えています。
その意味でも「従業員満足」が必ずしも「顧客満足」を生む要件であるとは思いませんが、「恩おくり」の労働が社会と関わり続ける人間としての魂の自立の要件の一つと考えています。性で差別しない、肌の色で差別しない、職業で差別しない、障がいの有無で差別しない、そして忘れてはならないのは所得で差別しないという原則を貫いて、それぞれの個人史と個性と能力に応じて社会に還元する循環を起こすことこそが、生きづらさや生きにくさのない社会のユニバーサルデザインを実現できる道筋と考えますし、だからこそ「従業員満足」は、ある意味では「顧客満足」と同等かあるいはそれ以上に社会の健全化には肝要なことと私は考えています。
しかし、90年代から日本の政治経済体制に強い影響力を及ぼすようになった新自由主義経済思想に基づいて幾度となく改正されてきた労働法制によって、「従業員満足」という言葉はまったく語られなくなってしまいました。忘れ去られたかのようです。人間を生産性向上のための「道具」としか考えない経済思想が世界を覆ってしまっており、労働の対価としての経済的な報酬のほかに「従業員満足という報酬」を受けることなど政治家や経営者の視野には入っていないようです。「感謝されること」と「喜んでもらえること」は「恩おくりの労働」には大切なことですし、それによって「必要とされる実感」と「役に立っているという実感」を私たちは得ることができます。「恩おくりができた」という実感です。この人間存在(doingではなくbeing)の相互のやりとりが社会の健全な循環を私たちにもたらすと思っています。このことは繰り返し「館長エッセイ」や「館長VS局長」でも述べてきました。
9月、11月と英国を訪れてきました。来年2月にアーラで開催する世界劇場会議国際フォーラム2016の英国側のゲストスピーカーとの折衝と打合せ、2020東京五輪の文化プログラムに英国の地域劇場との滞在型国際共同制作を立ち上げて、リーズ、ロンドン、可児、東京の巡演を協議するキックオフ・ミーティングのための訪英でしたが、今回で9回目の訪問となる英国北部のリーズ市にあるウエストヨークシャー・プレイハウス(WYP)で、私はあらためてWYPの劇場職員たちの「従業員満足」を目の当たりにしました。いつ訪れても思うのが、彼らの使命感に突き動かされる姿と、そして笑顔です。それはエグゼクティブ・クラスの経営幹部から、ニートや若年失業者や障がい者への多様なプログラムを展開する「ファースト・フロア」のインターンの学生まで、自分の仕事と劇場が地域社会に果たしている役割に誇りを持っている証しなのだと、私ははじめてWYPを訪ねたときから変わらず思っています。そのような彼らも、ジュード・ケリー芸術監督、マギー・サクソン経営監督の、全国的なブランディングに成功したゴールデンコンビ時代のあと、イアン・ブラウン芸術監督となって権限の一極化という急進的な組織改革のあとWYPが一時停滞した頃は、職員の入れ替わりも激しく、劇場に集う市民の姿も少なくなり、劇場職員の表情もどんよりとしたものとなっていました。しかし、現在では「従業員満足」にあふれた表情の職員を見ることができるようになっています。その市民に対応する姿勢は、劇場に訪れる市民に自身の「居場所」を感じさせ、「やすらぎ」をもたらし、劇場のあるコミュニティの豊かさを実感させています。むろん、アーラもそうありたいと8年前に館長兼劇場総監督に就任した時から、体温のある職場を目指しての組織マネジメントを心がけてきました。
しかし、2003年に地方自治法の一部改正で指定管理者制度が導入されて以来、劇場音楽堂等の非正規職員率は、現在では一般雇用者の40%を大きく超えてそのおよそ倍近くになっています。非正規雇用の職員には、「従業員満足」なぞ望むべくもない環境と言えます。劇場運営のために過不足なく「道具」として機能してくれれば良いからです。つまり、同じ指定管理者導入の公共駐車場の入退車時の昇降装置の自働機械と同じ役割しか求められていない訳です。時折定期点検すれば事足りる機械と同じ程度の役割しか求められていないのです。むろん、駐車場はそれで充分なのですが、劇場音楽堂等をはじめとするサービス業はそれでは体温がある施設には絶対になりません。
新自由主義経済思想は、さまざまな局面で人間をスポイルすることで利潤の最大化を果たそうとするものです。サブプライムローン問題やリーマンショック以降、近年の経済学者は「幸福」ということを頻繁に語る傾向にあります。資本主義が野獣化して人間を幸せにしていない、という認識があるからだと私は考えています。経済に人間がかしずく社会が健全な社会であるはずがありません。経済成長を至上命題にした経済思想は、人間を疎外する方向に社会をミスリードしてしまいます。格差社会や社会的孤立、貧困化のみならず働く人間をも疎外してしまう非人間的な社会と国家を形づくってしまいます。「経済学は人間を幸せにしているか」という故宇沢弘文先生の問い掛けが重い意味を持ってきます。
「従業員満足」が言われなくなってから随分と時間が経っています。そんな御託は利潤の最大化には何の役にも立たないということなのでしょう。だがしかし、と私は思います。劇場音楽堂等をはじめとするサービス業、とりわけ人間的な触れ合いや関わり合いが重要な意味を持っている業態においては、「従業員満足」は大きな実りを約束すると断言します。今更「従業員満足」か、と時代錯誤も甚だしいと言わんばかりの上から目線の批判が聞こえてくるようですが、私は「いまこそ」その地点に立ち返って劇場音楽堂等の社会的使命を考えるべきだと強く思うのです。冷たい隙間風が絶え間なく吹きすさぶ社会だからこそ、せめても劇場音楽堂等はそのような社会に疲弊した人々の羽を休める場所でありたいと、私は切実に思うのです。そのためにも、「従業員満足」という言葉を劇場音楽堂等で復権させ、大事にしたいと願うのです。私たちの仕事と使命は、「恩おくり」だと思っています。様々な、そして多くの人たちに支えられて私の、あるいは私たちの「現在」があり、そのために受けてきた「恩」を可児市民のみならず日本国民全体に返すことで劇場音楽堂等を社会のユニバーサルデザイン構築のための拠点施設にする。それが私たちの究極の使命だと思っています。