第166回 東京のビジネスモデルを踏襲するだけの劇場経営からの逸脱を。
2014年11月24日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
講演、シンポジウム、視察対応で、毎週、自治体文化行政や劇場ホールの関係者と意見交換をする機会を持っています。地域それぞれの事情はいろいろで皆違った悩みを持っていらっしゃるのですが、皆さんに共通する話題は、集客に苦労している事業運営に何か工夫はないかという点と、自治体からの文化予算の削減です。それらの課題解決が話題の中心になります。アーラはその成功事例として、地方に呼ばれたり、視察に見えたりしているのでしょうが、それらの課題解決への「特効薬」はありません。最近は「マーケティング」というテーマで呼ばれることが多くなっているのですが、マーケティングの考え方、進め方は喋ることはできても、だからお客さまが即座に増えるという「特効薬」ではないのは言うまでもないことです。
ただ、皆さんが大きく勘違いしている点があることも実のところ共通しています。明らかに諸条件が大きく異なっているのに、東京のマネジメントとマーケティングを、ただただひたすらに踏襲しているに過ぎない点です。文化芸術の人材集積や技術集積が東京に一極集中しているのは紛れもない事実ですが、東京での芸術団体の活動は、概ね劇場やホールを「限られた期間だけ借り受け」て、一時的にそこに「レジデント」して公演活動しているのです。一時的に借り受けた時間と空間で経済活動をしているのです。地域の劇場ホール関係者は、そこで行われているマネジメントやマーケティングが、一時的に借り受けた「仮想拠点空間」で、一時的に芸術活動と経済活動が機能しているに過ぎないことに気付かなれければないないと思います。地域の劇場ホールと拠って立つ基盤がまったく違うのに、東京の芸術団体の手法を無修正で模倣することに、私は違和感を覚えています。
東京の「やり方」が万能であるとは私は思いません。優れているとも思っていません。何よりも、地域に劇場ホールという「実体的拠点」を持って経営していることと、「仮想拠点空間」でマネジメントとマーケティングしていることとは、構造的にまったく異なっていることですし、その考え方もスキームもまったく違ったものになると私は思っています。そのことに気付かないと、ただひたすらに東京の公演制作の方法を踏襲して、拠点を実体的に持っているという「強み」をいたずらに過小評価し、招聘型の事業しかやっていないという「弱み」をことさらに拡大露呈させてしまうことになります。その結果、地域の劇場ホールは「委縮」した経営しか出来なくなってしまうのです。
東京の芸術団体は、一時的に借り受けている劇場ホールをブランド化する必要はありません。そのようなブランド・マーケティングに費用と時間を費やすことは意味のないことです。ただひたすらに自身の団体のブランディングを考え、より芸術性の高い成果を創造することに専心するのが芸術団体の唯一無二のミッションです。それのみが高度な経済活動を担保します。しかし、地域を拠点とする劇場ホールの経営は、その建物自体のブランド化を推し進めることで市民の信頼を獲得し、高度化して、市民の心の拠り所になることがまず求められるのです。そこで行われるのは、チケットの売り買いや貸館貸室を借り受けるという経済行為だけではありません。劇場に本を読みに来る市民、お弁当を作ってお子さんとランチをとりに来る親子、勉強にくる中高生など、経済行為が派生しない来館者をホスピタリティを持って迎え入れることこそが、「非排除性(対価を支払わない人でも排除できない)」と「非競合性(何人が利用しても総費用が増えない)」を持った「公共財としての劇場ホール」なのです。
つまり、すべての人々に対価を徴収することなく開放されている「ロビー政策」を推し進めることこそが「公共財としての劇場ホール」の存在を保障するのです。「新しい価値」を生成することが経営です。経済的な利得を生む経済行為も経営ですが、開放された、居心地の良いロビーを創り出して市民の拠り所とすることも社会的な「新しい価値」をつくりだす経営行為と考えるべきなのです。「人間のための経済学」を志向して、この9月に亡くなった宇沢弘文氏の提唱した「社会的共通資本としての文化」とは、すべての人々に向けて開かれた広場としての劇場ホールだと私は考えています。したがって、対価の発生する経済行為を目的とした実演と鑑賞のための空間のみに特化している民間の劇場ホールは「公共財」とは言えません。「準公共財」もしくは「社会的価値財」です。劇場ホールのブランディングとは、まず「公共財としての劇場ホール」を現在させ、成立させることなのです。そののちに高いブランド価値を持った劇場ホールは、チケットの売り買いや貸館貸室の利用という経済行為に「安心感」をもたらすことになります。「安心感」という社会的保証と合意は、「良い舞台を提供しますという単なる誓約」に過ぎないチケットの売り買いという経済行為にも確証に近い保証条件、マーケティング学で言う「証拠固め」を付与することになります。
私がアーラに赴任してはじめてやった仕事は、館内のあちらこちらに貼られている「禁止行為」をすべて剥がすことでした。自由に利用されるべき「公共財」に、利用に際しての制約をべたべた貼っているということは、もうそれだけで「公共財」としての空間価値を自らの手で堅苦しいものに陥れているのです。そのような所に誰が本を読みに来ますか、ランチを食べに来ますか。ロビー政策の成果が「公共財」としての劇場ホールを現前させるのです。現行の公立の劇場経営は、東京の芸術団体と同じように経済行為のみに着目しているのです。2012年6月に施行された「劇場法」でも、多様な人々が集う「新しい広場」、「公共財」としての劇場ホールを想定しているにも関わらず、現在計画されている、あるいは施工中の劇場ホールの多くは、1500から2000の巨大な公演施設を設けて、市民の集える諸室とロビーを少なく、手狭な設計にしています。経済行為が起こる部分のみを拡大化してしまい、「公共財としての劇場ホール」の要件を副次的なものとしてしまっています。
地域の劇場ホールに必須なブランディングをあらかじめ放棄していると私には見えます。折角の拠点施設の建設であるのに、旧来型の「東京モデル」の劇場ホールを設置してしまっているのです。残念でなりません。「東京モデルという常識」を疑うことを端からしていないから、そのような計画に堕してしまうのです。行き着くところは、市民に支持されない「無駄なハコモノ」化です。
ここで、劇場ホールのキャパシティに関する「常識」を疑ってみようと思います。私は宮城大学・大学院で教師をしている以前から、何で1500席とか2000席のという大きなホールを造るのかに疑問を持っていました。早稲田大学の講師の頃に北海道劇場計画に7年間主査として関わりましたが、その時にも2000キャパという話が市民団体から出ました。お稽古事の発表会や文化協会の催事に、そのくらいないと収容しきれないというのです。2000という数字は「延べ入場者数ではないですか?開演時から終演時まで2000人が客席に滞留しているわけではないでしょう」と言ったら、文化団体の人間からは何の反論も出ませんでした。実態的には500から600に過ぎません。年に一度の催事のために巨大な客席を擁するホールを造るなど、それこそ税金の無駄遣いなのです。使用していなくても、維持管理に大きさに比例する費用が掛かります。それにはまさしく税金が無駄に費やされるのです。
大きい方が民間のプロモーターや興行会社が貸館として利用してくれる、というまったく不見識な考えが行政にはあります。これも「誤解」に過ぎません。劇場計画の際に、民間の興行会社を対象とした調査をしている自治体さえあります。これは勘違いも甚だしいもので、たとえ利用料金を支払ってもらっても、それは実費のおよそ20%以下の金額でしかなく、残りの80%以上は市民から徴収した税金で補填しているのです。営利法人に公的資金を注ぎ込んでいるのです。ましてや民間業者は収益の最大化を使命としますから、入場料金設定も高額なものとなります。つまり、市民の負担を大きくして、しかも税金で利用料金の実費不足分を補填しているのです。市民にとっては何一つ良いことはないのです。
自主事業で買い公演をするにしても、2000キャパの計画を1000キャパに縮小して、1回公演を2回にすれば良いだけです。たとえば、金曜日のソワレと土曜日のマチネにするだけで、アクセス可能日が2日間になって、1.4倍から1.6倍に観客は増加します。札幌交響楽団が、定期演奏会を土曜日1回から金土の2回にして、それまでなかなか増えなかった定期会員が急増したのを見ても、アクセスポイントを増やす経営政策がいかに大切か分かります。そんなことは、自分の身に置き換えて考えればすぐに分かることです。アクセス可能日が1回から2回に増えるだけで顧客の選択肢が倍増するわけですし、顧客の行動選択の自由度もまた増大するのです。
それでは事業の購入費が倍増して事業費の過負担になってしまう、という異論もあるでしょう。それこそが従来の公立施設の盲点であり、弱点なのです。東京の芸術団体には、地域の公立の劇場ホールは「言い値」で買ってくれる、という意識が定着しています。随分と舐められたものです。相場感のない劇場ホールの職員や自治体の担当職員が言い値で買うという価格交渉なしの商行為を長年行ってきたということです。2回公演にして価格も倍増させるのではなく、購入価格を1.5倍にすれば良いだけです。公演の売り買いの場合、私たちの方が「客」なのです。価格交渉がうまくいかないなら価格交渉不成立としてテーブルを蹴ってその事業を辞めれば良いだけです。代わりはいくらでもあるのです。非常にタフな交渉になりますが、市民から徴収した税金を使っているのです。胃が痛くなるほどの交渉をするのは当然の責務です。
公立の劇場ホールの担当者や管理職が、「相場感」がないことと、それによって価格交渉をできないことにこそ盲点があり、弱点があるのです。また、酷い場合は事業担当者が新聞社や放送局の事業部と癒着していて無償で営利法人の事業にホールを貸与している例がいくつもあります。まったく論外です。「業界通」と称する人間が理事に収まって興行会社からバックマージンを取っている、到底容認できない事例さえあります。首長に取り入ったプロモーターが多額のマージンを懐にして毎年事業を請け負っている事例も珍しくはありません。これらは問題外なのですが、それも自治体の所管する部署の不見識と劇場ホールの管理職の相場感のなさのなせる技と言えるでしょう。
話を元に戻しましょう。地域の公立劇場ホールは、拠点となる施設を持っているのです。これが東京の芸術団体とはまったく違っていることです。したがって、東京の芸術団体のように事業や公演毎に非連続的なマネジメントやマーケティングをするのは非効率であるし、また自分の「強み」を生かしていないと言えます。実体的に存在する拠点施設自体の連続性を生かして、事業のラインアップに「柱」をつくることが求められます。それによって、顧客に鑑賞行為のストーリー性を醸成させるように仕組むのです。「点」である事業を「線」にして、さらに「面」に拡大させるマーケティングを施してこそ、その「強み」を十二分に発揮できるのです。したがって、アトランダムに事業を並べて、事業を「点」としてマーケティングするのは非効率なのです。毎回毎回、ゼロから事業を立ち上げて広報宣伝を施し、鑑賞者開発をするのは効率的きわまりないことなのです。
施設の連続性と事業の連続性(物語性と言っても良い)を連関させる経営と、地域社会に貢献するマーケティングを頻繁に行ってブランド力を高度化して鑑賞者開発型のコーズ・リレイテッド・マーケティング(Cause Related Marketing=社会貢献型マーケティング=社会課題解決型マーケティング)を仕組むことが地域の公立の劇場ホール経営には不可欠です。この戦略手法を採用しているのは、私共アーラが日本では嚆矢であったし、他でもない未だ行われていません。そして、これはどのような施設でも、仮に予算が少なくともダウンサイジングして採用できる経営戦略なのです。コーズ・リレイテッド・マーケティング(CRM)とは、何処の地域にもある社会課題の解決と鑑賞者開発を同時に実現しようとするマーケティング手法です。社会課題のない地域などあるはずもないですから、何処ででも、しかも明日からでも着手できるマーケティングなのです。
コーズ・リレイテッド・マーケティングは、80年代初頭に開発された比較的新しいマーケティング手法です。営利、非営利を問わず、社会的課題を解決するという社会貢献を業務の一環に組み込むことで社会的信頼(ブランド力)を増幅させて顧客との強い関係づくりを形成し、同時に商品やサービスの購入を促進させようとする経営手法です。その嚆矢となった1983年の「自由の女神修復キャンペーン」のアメリカン・エクスプレスのマーケティング展開の手法は、たとえばアサヒビールドライを一本購入につき1円が環境・文化財保護寄付されるアサヒビール(株)、ネピア商品を1パック買う毎に売上の一部が東ティモールのトイレ建設や修復のためにユニセフを通して寄付される王子ネピア(株)、エイボンやワコールが支援している乳がん撲滅のピンクリボン運動など、日本で現在行われている企業発のムーブメントもコーズ・リレイテッド・マーケティングです。
私は拠点施設をもつ地域におけるマネジメント、マーケティングは、東京の芸術団体の踏襲模倣からテイクオフしなければ将来的な展望は拓けないと考えています。その新しい考え方に沿った経営を施さないかぎり、地域の劇場ホールは何処まで行っても東京の芸術団体の赤字補填のための補完物に甘んじなければならないでしょう。あるいは都市部のプロモーターの「草刈り場」になるしかありません。また、地域社会の健全化に寄与するという使命を果たすことは到底出来ないでしょう。東京のブランチ機能しか持たない施設なら税金を投入する必要などありません。自立的に使命を果たす劇場ホールを目指すのなら、現在の劇場経営の在り方と考え方を疑い、新しい価値を生成する地域の公立文化施設ならではの経営理念と手法に着手しなければなりません。地域劇場経営の再構築です。
その為にはアーラの経営手法をいくらでも公開しますし、私が支援に赴くことも厭いません。一日の猶予もありません。ともかく、健全な地域経営に資する劇場音楽堂等を、予算が少ないなら知恵を出して、さらに手間をかけて創り上げることが地域劇場の経営に携わる私たちの使命であると考えています。そのことで、東京の芸術経営の在り方を相対化することが時代の要請であると、私は確信しています。