第164回 「地方創生」に、全国隅々にある公立文化施設の利活用を― 社会包摂施設としての劇場ホールの成立が時代の要請だ。
2014年9月18日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
WEB版の「福祉新聞」9月1日号を読んでいました。毎週月曜日に更新されるこの新聞は、隔週でやっている「館長ゼミ」がない週や出張のない日にはゆっくりと隅々にまで目を通します。地域の社会課題に向かい合わなければならない公立の劇場ホールの経営者にとって、「福祉新聞」は、文化芸術の社会化に向かうための新しい視点を時に提供してくれます。しかし、その日の「福祉新聞」の記事には目を剥きました。来年度の概算要求の特別枠で、厚生労働省が屋上屋を重ねるように地域交流施設を「複合型共生施設」と名付けて100施設程度を全国展開するとして、その施設整備に55億円を計上したというのです。またしても公共事業による「ハコモノ」の建設です。さらに、「子どもから高齢者までが、年齢や障害の有無にかかわらず、一箇所に集い交流できる居場所づくりを推進する」として、その拠点整備には18億円。「地域インフォーマル活動の活性化、新たな地域サービスの創出など、既存の制度を下支えする基盤づくり」というソフト事業にも40億円を計上していました。「特別枠」というのは、成長戦略と地方創生にかかわる予算を「新しい日本のための優先課題推進枠」として最大4兆円を限度とする安倍政権が優先的に取り扱う予算枠のことです。
私は、全国の隅々にまである約2200と言われる既存の劇場ホールの利活用によってそれらは十二分にカバーできる公共的な福祉サービスだと思います。三菱UFJリサーチ&コンサルティングが作成した『共生型福祉施設の設置運営支援事業報告書』にも当たりましたが、劇場ホールで出来ないのは「お泊り」事業くらいで、ほとんどの福祉事業は可児市文化創造センターalaでは既に「アーラまち元気プロジェクト」として行われているか、これからの事業として視野に入っているものばかりでした。WEB版「福祉新聞」には、「各府省 来年度の福祉関係予算案」という見出しで、文部科学省、国土交通省、内閣府、総務省、経済産業省、法務省の福祉関連予算要求の概略が掲載されています。また、「地方創生関連予算要求概要」はネットで検索すればすぐにヒットします。来年度の各省庁の概算要求のなかの「特別枠」の一覧をながめ、一つひとつ精査しながら、「これは地域の劇場ホールが地域社会の福祉化と健全化のためにやるべきことだな」と思えるものがいくつもあるのです。参考までに、アーラのウェブサイトにアップしてある「アーラまち元気プロジェクト」の報告書をご覧いただければと思います。(http://www.kpac.or.jp/project/machigenki.html)私たちアーラが地域社会に対してどのようや役割を果たそうとしているのかがお分かり頂けるでしょう。
本来は、地域社会ですべての人々が生きる意欲をもって生活を営める福祉的な環境づくりを支援し、そしてそのことによって地域の健全化を推進する使命を持っていなければならないのが、すべての地域住民から強制的に徴収した税金で設置し、運営している「公立」である劇場ホールの根源的な仕事だと私は考えているのですが、実のところは、一般的には「興行場」と捉えられているために、そのバイアスによって既存施設である劇場ホールの利活用が妨げられているのです。設置自治体の考え方も、加えて議会までも、わが町にホールを設置するということは「興行場」を造ることと考えていたのです。ボタンの掛け違えです。そして、いまでも「興行をしているのに何で利益が出ないのか」という頑迷な考えがあるのです。それが多くの地域の劇場ホールの運営委縮の根幹にあるのです。いきおい事業は良質なものよりも、テレビタレントや有名俳優の出ているものに傾斜せざるを得なくなるのです。そのような「瞬間最大風速」の動員を求めるようなマーケティングでは、固定顧客を獲得できるはずもありません。結局は悪循環なのです。
私は「興行師」ではありません。90年代に地域に出てから、そして『芸術文化行政と地域社会』という歌舞伎・演劇評論以外で初めて上梓した本を出してから、私は一貫してそういう立場をとっています。劇場ホールはまちやまちの人々に「戦略的に投資する装置」である、と思い続けています。そういう立ち位置から「地域創生」に当該する特別枠の予算要求を概観すると、正直言って、全国の公立劇場ホールが「興行場」として設置された経緯の曖昧さと、「誤解」から始まったボタンの掛け違えによって形づくられてしまった「壁の高さ」を感じてしまうのです。そして、安倍総理と石破地方創生大臣が「まち・ひと・しごと創生本部事務局」の看板を掛ける映像をテレビで見ながら、またしても「バラマキ」が始まってしまうのかと危惧せざるを得ないのです。
「しごと」は確かに政府・自治体の仕事です。雇用問題だからです。制度に関わる改革を必要とするからです。非正規労働者が被雇用者全体の38.2%にものぼる社会。不安定な非正規雇用によって、結婚できない、子どもをつくることを躊躇っている人は非常に多くいます。労働法制の改正や、雇用関係の健全化は確かに国や自治体が取り組まなければならない課題です。人間を「コスト」と考える社会の経済は「格差拡大」を生み、身分制度のような階級社会を徐々に形づくって行きます。OECDの報告によると、今後数十年で所得格差の拡大により世界の成長は鈍化するとされています。米国のスタンダード&プアーズも同様のレポートをしています。制度改革と財政出動による「地方創生」の政策課題は、政府と自治体の責任と言えます。たとえば「特区構想」です。私は可児市を「起業家特区」にすれば良いと考えています。IT技術の進化によって仕事は何処に拠点を置いてもできます。しかも、可児市は名古屋圏という大都市にも近く、土地が廉価なため少ない投資で拠点づくりができます。過去に「首都機能移転」が検討されたほど岩盤がしっかりしていて災害にも強いのです。様々な税制優遇措置をすれば、多くの起業家の移住がと拠点の移転が可能となります。これは制度改革の果実を生むという発想です。ただただ財政出動すれば「地方創生」ができて、人口減に歯止めがかけられるというものではないと私は考えます。
そもそも、90年代から2000年初頭にかけて次々と竣工した公立の劇場ホールは、日米包括経済協議の内需拡大のためのコミットメントによる財政出動、つまり壮大な「バラマキ」に下支えされて造られたものなのです。当該自治体の住民のニーズに基づいたものではなかったと言えます。80年代に一貫していた日米の懸案は、膨れ上がったアメリカの対日貿易赤字と日本の貿易経常黒字を均衡させることで、ジャパン・バッシングなどに現われた日米貿易摩擦をいかに解消するかが問われていました。「貿易赤字の国」の通貨であるドルの魅力を薄れさせて、ドル相場は次第に不安定になりました。こうした状況の下、70年代末期のような「ドル危機の再発」を恐れた先進国は、協調的なドル安を図ることで合意しました。それが85年の「プラザ合意」です。とりわけ、アメリカの対日貿易赤字が顕著であったため、「プラザ合意」は 実質的に円高ドル安に誘導する内容でした。しかし、それが日本にバブル景気を発生させたため、次の手段として「日米構造会議」が設けられることになり、当時の日本の年間GDPの10%にあたる43兆円を向こう10年間、日本の経済生産性を高めないものに費やすことを約束させられたのです。総額430兆円の内需拡大です。
さらに94年に改称された「日米包括経済協議」で、200兆円積み増して、13年間で630兆円の、生産性を上げない国内投資、すなわち公共事業やハコモノ建設に費やすことを約束したのです。そのことで、日米の貿易不均衡を解消しようと米国政府は考えたわけです。80年代までは概ね対GDP比60%超の水準にあった政府の債務残高が、90年代初頭のバブル崩壊を機に急激に上昇して、97年前後には対GDP比が100%を突破することになります。その債務の急上昇の背景には、要因の一つとしてこの「日米包括経済協議」のコミットがあるのです。現在の国・自治体の財政危機の原点はここにあります。問題は、それが国民市民のニーズに基づいた投資ではなく、初めに630兆円ありきの公共事業だったことです。経済界はもちろんそのコミットメントを歓迎しましたが、全国には住民が必ずしも必要としていないものが次々と建設されたのです。90年代から2000年代の「ホール建設ラッシュ」の背景には、そのような「事情」がありました。当然のことですが、自主財源で建設できるはずもなく、起債することで、つまり借金をして多くの公立ホールは設置されます。その償還の大部分は国が地方交付税交付金に参入するので、国の財政も逼迫することになります。国民市民のニーズによってではなく、米国の圧力によって行われたバラマキ公共事業の結果が「ホール建設ラッシュ」だったのです。
そのような「事情」で建設された劇場ホールは、それを動かすための管理費や事業費等の後年度負担によって「金食い虫」となってしまいます。行政内部からも、議会からも、そして住民からも、そう思われてしまっています。建設する前からそれは分かっていたことでした。公共事業として「建設することだけ」が目的なので、建てた後のマネジメントやマーケティングなんぞは考えるはずもありません。住民のニーズに基づいていないのだから、「金食い虫」、「ハコモノ」と言われても致し方ないでしょう。その成り立ちから考えれば、「地域社会ですべての人々が生きる意欲をもって生活を営める福祉的な環境を、そしてそのことによって地域の健全化を推進する使命を持っていなければならない公立の劇場ホール」などというミッションは、はじめからあるはずもないのです。行き着く先は外形的な印象からくる「興行場」という認識になります。しかし、私たち日本人は、どのような「事情」があろうとも、その「投資」を決して無駄にしてはいけないと思います。そのような施設が全国に2200もあるのです。日本の隅々にまで、ほとんど「毛細血管」のように設置されているのです。そこに新鮮な血液を送り込む改革こそは「地方創生」でなされるべきだと考えます。新たにハコモノを造る必要などありません。そのような余裕は、日本の財政事情にはないはずです。確かに、第三次基本方針を通低音として制定公布された「劇場法」と「大臣指針」にはそぐわない、ワークショップなどに使うための諸室の少ない構造ではありますが、既存の施設を利活用しない手はないのです。運営を創意工夫すれば問題は解決します。
「文化芸術の社会包摂機能」と、閣議決定された第三次基本方針に掲げているではないですか。それは、文化芸術そのものが社会的諸課題を即座に解決するということではありません。文化芸術は「万能薬」では決してないのです。対症療法の特効薬でもありません。しかし、文化芸術が他者を必要とするものであり、そこに起こるコミュニケーションと、それによって形成される「関係づくり」の機能が、さまざまなコミュニティの問題解決や課題解決のステージを用意する「機会」を提供する、ということなのです。いわば、「文化芸術の社会包摂機能」とは「漢方薬」のようにコミュニティを活性化することで問題と課題を共助と自助で解決に導くということなのです。その「機会」を提供するのです。大事なのは「機会の提供」です。コミュニケーションが欠落しているところに問題解決も課題解決もないのは当然です。コミュニケーションの集積こそが「コミュニティ」です。そのことを前提として、私は全国に張り巡らされた公立の劇場ホールを「社会包摂施設」として機能させるべきだと考えるのです。
最近大いに話題となっているトマ・ピケティの『21世紀の資本論』(邦訳は12月に出版予定)によれば、国民の所得にトリクルダウンされると「期待」される経済成長率よりも、土地、株、債券等からの資本収益率(自己増殖)の方が伸長率は高く、したがって所得再配分を目的とした富裕層に対する税制措置に舵を切らないかぎり格差は拡大する一方であるという。いわゆる中間層はやがては貧困層になると言い切っています。そのエビデンスとして、米国の中間層の所得の伸びは80年代から一貫して鈍化しているのに対して、富裕層の所得の伸びは急激な右肩上がりとなっていることを挙げています。仮に彼の仮説が正しいとすれば、民主的な社会は著しく毀損されることになります。「機会の不平等」が蔓延し、貧困層からの不満は社会不安の基になります。また、少子高齢化によって労働人口の減少は避けられず、外国人労働者への規制が大きく緩和されることになるのは時間の問題です。そうならないためには、生産性を大幅に高めるための「革命的な技術革新」が必須となますが、そのような不確実性の高いことに大きな期待を寄せることはできません。
とすれば、今後の社会は、経済発展をすればするほど社会的な課題が大きく膨らむことになります。解決しなければならない社会不安が、人々の生活と生きる社会を際限もなく不安定なものにすることになるでしょう。だからと言って、財政赤字を放置して財政出動をしてハード建設に邁進するわけにはいかないのは、火を見るよりも明らかです。建設国債だから赤字国債よりはまし、などと言ってはいられない国と自治体の財政状況なのです。新たにハコモノを造ることはありません。社会包摂施設として地域に2200もある公立の劇場ホールを利活用すべきではないでしょうか。社会的セーフティネットとしての劇場ホールです。学校を用途転換して文化施設や起業家のインキュベーター施設にするのとは違います。社会包摂施設と位置づければ「目的外使用」にはなりません。アーラが標榜しているような「社会機関としてのアーラ」、「芸術の殿堂より人間の家」への転換です。そのような意識改革をして、経営意識の変革をはかれば職員にも「やりがい」がもたらされて、組織が活性化するという副産物までも見込めるのは可児市文化創造センターalaの事例を見ても明らかです。
「地方創生」は、少子高齢化による人口減少と地方の疲弊化と加速度的に進行する東京一極集中化の「共通解」として提起された施策です。資本主義は生産性を際限もなく高度化し「コストとしての人件費の削減」によることのみで経済成長が担保されるという特質をもっており、その意味では、生産性の高い業種が偏在する東京に人口が集まる構造からは到底逃れることはできません。しかし、東京で生活するということは家計にとっては過重な負担であり、あわせて待機児童も多く、育児環境も劣悪です。片道1時間半や2時間の通勤距離は、夫の時間制約によって子育て環境がますます劣化します。当然、家賃等の住宅事情も大都市圏は決して良くはありません。
したがって、一人の女性が一生に産む子供の数の平均を合計特殊出生率と言いますが、東京都に限ってみる1.09と低水準を推移しています。ということは、東京一極に人口が集中するということが、人口減少の遠因となっており、経済生産性の高度化と東京への一極集中是正は「囚人のジレンマ」となっていることが分かります。
そう見てくると、地域の生活環境と福祉環境を健全化して、より多くの人々が心の安寧をもとめて移住したいと思えるような安心安全な、そして育児環境が整備された地域社会を形成することが「地方創生」の鍵となります。たとえば、可児市の待機児童はゼロです。生活環境と福祉環境の整備という地域課題は、さらなるハコモノ建設では決して解決できないことです。たとえば、アーラは0歳児から3歳児までのお子さんと、その若いお母さんがたの、関係づくりのためのワークショップを週一回で開催しています。核家族化で深刻になる若いお母さんの育児ストレスを解消して、育児のための経験交流することがこの事業の目的です。アーラが支援している県立高校へのワークショップは、中途退学者を入学者の約半数に当たる80人台から3ヶ年で20人台に激減させました。不登校の子供たちに「生きる意欲」を持ってもらい、進学に前向きになってもらう目的で可児市の教育研究所内に設置されたフリースクールにも、毎週コミュニティ・アーツワーカーを派遣しています。「子ども・若者の貧困」や「単身親家庭」、今日的に大きな社会問題となっている「20代の自殺」など、彼らの「社会的孤立」に対応するワークショップは、再来年度あたりから実施できるようになるでしょう。
全国にある公立の劇場ホールをアーラのように「社会包摂施設」と位置づけることには何ひとつ問題はありません。むしろ、「公助」が困難になりつつある時代の変化の中で、「共助・自助」のステージづくりとネットワーク化への意欲を醸成する「関係づくりの媒体」として、劇場ホールの社会的役割が今日の喫緊の課題として求められているのです。文化施設でも芸術の殿堂でもない、社会機関としての、社会包摂施設がとしての劇場ホールが、社会貢献型マーケティング(Cause Related Marketing )によって社会的信頼というブランディングを推し進め、鑑賞者開発と来館者開発の新しい地平を切り拓くことは、可児市文化創造センターalaの、これまでの7年間が如実に物語っています。「しごと」は政府・自治体の仕事ですが、「まち」と「ひと」の課題解決は、アーラと可児市の協働の成果を見れば分かるように、「社会包摂施設としての劇場ホールの利活用と基礎自治体との協働」が、その鍵になると私は考えています。