第155回 アーラが目指す「公共劇場」とは。
2013年12月14日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
ここ数年、私は「公共劇場」と「公立劇場」を厳しく使い分けています。一般的には自治体立の劇場ホールのことを「公共劇場」と呼ぶならわしになっていますが、実体的にはそれは「公立劇場」、あるいは「公立ホール」でしかありません。百歩譲っても、官治的公共性に依っているという意味で「公共的な劇場ホール」と呼ぶことは出来ますが、厳密に言えば「公共劇場」とは市民的公共性に因って立つものと考えます。国民市民の社会的必要性に因って成立するのが、真の意味での「公共劇場」ではないでしょうか。「公立劇場から公共劇場へ」と、私はこの数年言い続けています。アーラを日本初の実体的な意味での「公共劇場」にする、というのが私の現在の仕事のモチベーションになっています。
「国の特別支援劇場音楽堂」として初めて採択された今年の終りに、これまでの私の劇場経営の手法のあらましと、これからどの様な地域劇場を目指すのかを、そして如何にして「真の意味での公共劇場」を現出しようとしているのかを覚束ない指先でデザインしてみたいと思います。前例のない作業ですから覚束ないのは致し方ありません。お許しください。私たちは、「僕たちの前に道はない、僕たちの後ろに道が出来る」という試行を繰り返しながら新しい地平に踏み込んで来たのですから。
「芸術の殿堂より人間の家へ」。私が可児市文化創造センターalaの館長に着任した折に、委託業者からの派遣職員をも含めた、アーラに何らかのかたちで係わっているおよそ80人を前にして行った就任訓示の中で強調した経営目標です。「芸術の殿堂」や「文化の殿堂」を、国民市民は本当に求めているのだろうか、という疑問はかねてから私にはありました。心の動く芝居を観たい、心揺さぶる音楽が聴きたい、という私的な欲求はありますが、それに専ら対応する人を寄せ付けない「殿堂なるもの」はいらない、というのが私の持論だったのです。それよりも人間の体温を感じさせる劇場や音楽堂が日本にはまったく存在していないことに強い違和感を持っていました。「人間の家」と私が言ったのは、まさに市民的公共性に裏打ちされた体温を感じる劇場を創出させたいという決意表明だったのです。
ここで、私の劇場経営の原点となっている90年代半ばに上梓した『芸術文化行政と地域社会 ― レジデントシアターへのデザイン』の序章「芸術支援から芸術による社会支援へ」の冒頭に書き卸した「カキの森の文化政策」からの抜粋を引用させてください。いまから20年以上前に書き下ろしたもので、いささか前のめりになっていて、読み返してみて恥じ入る感は否めませんが、地域の劇場・ホールの社会的存在価値に対する考えの根幹は、20数年過ぎたいまでもまったく変わっていません。
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「雨が森に降り、森林の蓄えていた栄養分が伏流水に溶け込んで川となり、流域をうるおし、海に流れ込んで海藻や植物プランクトンの生長を促し、豊かな魚介類を育てるのだという。この<森と魚貝>の連鎖は、水産海洋学の奈須敬二氏が力説するところで、なにも目新しいことではない。(中略)<カキの森>は長い時間をかけて豊かな海を人々にもたらす。一本の苗木を植えようとする手に明日の糧はもたらされないかもしれないが、その手は確実に未来に向かってひらかれている。真のリージョナリズムとは、そのようなロングスパンの中で蓄積されるさまざまな知的資源とその循環のシステムによって実りの季節を約束されるものではないだろうか。(中略)私はいま、レジデントシアターの在処を探ろうとしている。それは、私にとって、人間にやさしい社会とそれを生み出す文化的環境の在処=人間と社会にとっての<カキの森>を探し出す道程であり、その森のシステムに普遍性があるか否かを検証する作業でもある。演劇の側からの検証、行政の側からの検証、地域住民の側からの検証、鑑賞団体からの検証、教育制度からの検証、税制からの検証など、さまざまな角度から《レジデントシアター構想》は試されなければならない」 序章「芸術支援から芸術による社会支援へ」より。
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副題の「芸術支援から芸術による社会支援へ」が私の劇場への気持ちを余すところなく表しています。《カキの森》から一滴一滴と滴るしずくはやがて流域をうるおし、その豊饒なる流域に豊かな緑と収穫をもたらし、終には森からの贈りものである豊穣の海を生みだして、豊かな海からの収穫をも人々の手にもたらします。本来、公立の劇場ホールは、その《カキの森》の役割を担わなければならないものなのです。それもすべての市民を視野に入れて、すべての市民の利得となるようにでなければなりません。芸術愛好者だけの欲求に対応する施設であってはならないと思います。それは、すべての市民から、直接間接を問わず、強制的に税金を徴収した公的資金(=税金)で設置し、運営されている施設であるからです。ハコモノにならないためには、この経営意識が根幹に存在しなければなりません。
ならばそれがどの様な劇場なのか、具体的にこれと言って指し示す国内事例は着任当時には実のところは具体的にはなかったのです。ただ唯一の拠り所は、自著『芸術文化行政と地域社会 ― レジデントシアターへのデザイン』で構想した、アーチストとスタッフが地域に滞在して市民とともに作品を製作し、その一方で教育機関、福祉施設、保健医療機関と連携して住民が住みやすいまちづくりの媒介として劇場と文化芸術を援用するという、いまで言う「創造文化都市」のようなまちづくりの構想でした。少し長くなりますが、さらにその一部を引用します。
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さて、私の構想するレジデントシアターは、それ自体が自治体文化行政へ転換をせまる「政策提案」であり、また、演劇固有の能力を劇場の呪縛から解き放ち、多元的・社会的な価値として公共の認知を獲得しようとする「演劇自体の自己改革」をも企図するものである。前者は、日本の文化行政の「住民の生活にかかわらない分野」からの脱却、すなわち、演劇は私的な欲求を充足させる財であると同時に、福祉、教育、保健医療、保育などの地域社会が抱える諸問題にかかわり、その解決のための媒介的役割を果たす社会的な価値財であるとの認知を促して地域社会と行政に意識の転換を求めることであり、後者は、舞台という成果への「芸術的評価」のみを絶対的な価値として、それ以外のたとえばアウトリーチ活動にかかわる「社会的評価」を軽視しがちな従来の演劇のあり方に変革をせまるものである。いわば、芸術を聖域化する偏狭な考えからの、アーチスト自身の解放と言える。第三章「演劇と地域と市民社会 ― 福祉権的文化権コミュニティ/レジデントシアター ― <もうひとつの公共>へ」より
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これは、海外の劇場はもちろんのこと国内の劇場ホールも10数館しか見ていない、地域に出た早い時期に書き下ろしたもので、まさに純粋培養の賜物でした。私の想像力の中だけで構想したものでしたが、アーラに着任した当時はそれだけが劇場が地域社会で果たすべき役割の「理念」としては唯一の手掛かりでした。
その構想にかなり近いものとしてその後に実体的に存在を確認できたのが、98年に英国で出会ったウエストヨークシャー・プレイハウス(WYP)でした。ここでは年間約1000のコミュニティ・プログラムが実施されており、さらにロンドン・ウエストエンドにトランスファーする舞台、ナショナルシアター(NT)に1ヶ月間招待されて公演する舞台、ナショナルツアーに出る舞台と、芸術的にも評価の高い舞台を創造していたのです。芸術的評価と社会的評価を併せ持って、しかも、その価値を等価として活動している、私の理想に適った劇場でした。スペインから英国に入って訪れたWYPは、午前中なのに多くの市民で賑わっていました。本を読む人、食事をする人、コミュニティの集まりで会議をしている人と、ホワイエは多くの人々で息づいていました。「居場所としての劇場」がそこにはありました。
アーラの経営を進めるにあたっての手がかりと言えば、私の空想の中で構想した「レジデントシアター」と、数日間だけ体験した「WYPの実体」、この二つだけでしたが、私が夢想する「公共劇場」のデザインとしては、これだけで十分でした。あとはそれに日本の土壌に適った現実性と、実現性を持った仕組みに根気強く組み上げる作業だけでした。その組み上げの根拠となったのが、『芸術文化行政と地域社会』を上梓して、WYPに出会ったあと、県立宮城大学・大学院研究科の教員時代にゼミ生とともに勉強し直したマネジメントであり、マーケティングであり、公共政策学でした。
フィリップ・コトラー、セオドア・レビット、・ジョアン・シェフ・バーンスタイン等からはマーケティングの思考作法を、ピーター・ドラッカー、マイケル・ポーター、ダニエル・ピンク、松下幸之助等からは組織経営の手法と人的資源の活かし方を、ドン・ペパーズ、マーサ・ロジャース、井関利明等からはワン・トゥ・ワン・マーケティングと顧客とのリレーションシップの作法を、ジョン・スポールストラからはジャンプスタート・マーケティングを、井原哲夫からは体温のある経済学を学びました。WYPの経営監督のマギー・サクソンからは実践的なマネジメントとヒューマン・リソース・マネジメントを学ばせてもらいました。彼らの著書や言葉が私の理論武装の柱でした。私の劇場経営のための理論武装は、多くの場合、県立宮城大学事業構想学部と大学院研究科のゼミ生たちとのコミュニケーションによる相互学習という研究室とフィールドワークの共同作業の成果でした。
《市民が主役》とはよく自治体施設の開館時によく言われることですが、一般的に劇場ホールは、そうは謳うものの演奏される音楽、上演される演劇などの舞台芸術の芸術的価値が日本では常に中央の座を占めていました。市民は客席からの傍観者たる位置しか与えられていないのが常態でした。WYPのように「賑わいのある劇場」などは日本の劇場ホールでは見当たりません。事業がない時にでも日常的に「賑わい」のある公立劇場など何処を探してもありませんでした。それでも私は何としてでも「賑わいのある劇場」を創りたいと切望していました。そうでもならないかぎり、演劇もクラシックもダンスも、私たちの日常とは隔絶されて、何処まで行っても私たちの生活と交わることはないのです。
その為には、まず《市民が主役》の考え方を劇場の隅々までに浸透させなければならないと思いました。職員には、見知った方がいらしたら、「こんにちは」、「おはようございます」ときちんとお声掛けするように指示をしました。これは業務命令です。小さな子どもから高齢者まで、「自分はアーラに歓迎されている」と実感できる劇場空間をまず目指したのです。2007年11月末に、篭橋事務局長と渡辺総務課長が私を訪れて「是非、可児に」との申し入れを受けたのち、抱えきれないほどのそれまでの5年間の財務諸表と事業報告書を読み解いて12月に大学を辞す決心をして「遺書を書くつもりでやりましょう」と答えたのは、この《市民が主役》を実現させ、「賑わい」をあたうかぎり短期間で達成させようとの思いからでした。当時60歳の還暦を過ぎていた私には充分な時間は残っていないのでした。
《市民が主役》を言い換えれば、「価値は市民が決める」ということに他なりません。それは、市民の「受取価値がすべて」という経営理念の柱を、組織運営、事業運営、人事運営等の劇場すべての経営局面にその理念を一本通すことから始めることでした。価値の決定権を私たちから市民に委譲する、エンパワーメントするというのがアーラのイノベーションの第一歩でした。これは簡単なように見えて、実は私たちに染みついた「常識」を疑って、劇場経営の思考回路を180度変えることです。一般的には「これを観せたい、聴かせたい」から事業企画を始める「習性」を劇場職員持っています。いわば「啓蒙的」な姿勢で物事を決めようとします。この「習性」を排除しなければならないのです。これは難しいことです。
徹底して市民に寄り添うことで、「受取価値」による価値観やライフスタイルや生活信条の「変化」を起こそうというのです。そのことによってアーラを市民の生活局面に滑り込ませようとするのです。この姿勢こそが《市民が主役》なのではないでしょうか。その意味では、この対極にある、「興行師的思考」や「啓蒙家的思考」の劇場ホールばかりが全国各地につくられてしまったことは不幸なことでした。これは東京圏の劇場ホールをモデルとして経営を組み立てているからです。巨大マーケットである東京圏のマネジメントやマーケティングを「見習うべきモデル」と見誤った結果です。東京圏の劇場ホールは《市民が主役》からは一番遠いところにあるのです。東京圏は極めて「特殊な地域で」、全国各地の地域劇場ホールのモデルには決してならないのです。地域で劇場やホールを経営する者は、このことを肝に銘じなければなりません。
劇団の文学座と新日本フィルハーモニー交響楽団の在京の二つの芸術団体と「地域拠点契約」を締結したのも、「市民の受取価値がすべて」を企図したものです。この二つの芸術団体が教育や福祉などの分野に係わって公共的な活動を数多く実施していることが選択の決め手となりました。その公共的な活動を積極的にしている団体であるというのが前提としてあるのですが、「東京の有名な、技術的にもハイレベルな芸術団体が、この小さなまちにフランチャイズする」ということで生じる市民へのサプライズ効果と、それによる受取価値の最大化を図ったのが「地域拠点契約」なのです。これは、小さなまちの「小ささ」を強みとした経営施策です。彼等とは公演や演奏会のみならず、地域に出かけていくアウトリーチも多く担ってもらう包括的な契約になっています。市民の中に積極的に入って行ってもらおう、ということです。そのことによって彼等と市民とのあいだに「新しい価値=人間関係」を形成してもらうという意図が根底にありました。いわばリレーション・マーケティングの作法としてのアウトリーチなのです。
私は「アウトリーチ」には5人のプレーヤーが必要と思っています。「5人のプレーヤー」というのは、ワークショップのファシリテーター(アーチストorコミュニティ・アーツワーカー)と参加者の「2人のプレーヤー」は当然です。一般的には、この「2人のプレーヤー」のみでアウトリーチは進行してしまうのですが、大切なのは、この「2人のプレーヤー」のみではなく、その施設・機関の職員、参加者の家族、そしてそこで何が起こったのかの情報を発信するマスコミ関係者の3者を加えた「5人のプレーヤー」が存在して、初めて成果が外部に十分にアウトカムします。プログラムの質が担保できて、「成果の多岐的拡散」が具体化することになります。これは人間関係づくりに依拠する、「売れる環境づくり」と「社会的信頼形成」のマーケティングです。
この手法は、人間関係づくりという「ワン・トゥ・ワン・マーケティング(リレーションシップ・マーケティング)」と、マスコミを通じて地域社会にアウトリーチの実相を広く伝えるマスメディアによる「マス・マーケティング」を組み合わせた手法です。「優しかったあの人が出ている」、「楽しいあの人が演奏している」という人間関係づくりをしていくのです。それは同時にアーラに対する社会的信頼性(ブランディング)をも形成します。安心・安全な場所としてのアーラを市民に印象付けます。「賑わい」と「継続客」はこうして創られて行きます。私が着任してから、来館者は毎年およそ3万人前後ずつ増えて、昨年度でおよそ43万6,000人になっています。26万人の底からの出発でした。この仕事は、マス(塊)としての顧客と顧客予備軍に投網をかけるように即座に成果のでる作業ではありません。コツコツと積み上げるマーケティングです。東京圏でやっているような量に頼ったマス・マーケティングは「瞬間最大風速」の来場者は生みますが、息の長い「継続客」を創ることには不向きと言えます。そして、劇場ホールへの経済的貢献度は経年でトータルすれば「継続客」の方がはるかに高いのは自明のことです。
同じことは、誕生日月の観客や聴衆に職員手づくりのバースデイカードと可児の花であるバラを一輪ラッピングして会場前にお客さまの座席に置いておき、その方がいらしたら私がお祝いのご挨拶に行く「バースデイサプライズ」にも言えます。ひとりずつ、あるいはグループ毎をアーラのファンにしていく、コツコツと1人ずつアーラへのロイヤルティを持っていただくためのオセロゲームをしているような作業なのです。気の遠くなるような仕事ですが、その積み上げが「市民の価値」となって、近年では加速度的な「変化」を生んできています。劇場に「賑わい」と「継続客」が生まれて来ているのです。「賑わい」を生んでいる市民と「継続客」の方が、従来から自身が持っている価値観に対して、新しい価値を受容する「認知コスト」が彼らの中で低くなっていているのです。6年という時間の長さから考えれば当然の理です。つまり、アーラの支持者になる確率が、「賑わい」と「継続客」づくりを軸に経営を進めた方が、かたまり(マス)に投網をかけるような東京圏あるいは都市圏のようなマーケティング手法より、関係づくりの成果が高いということです。加速度的に支持者を増やすことに直結するのです。
それでも、そうやって時間をかけて支持者を増やしても、一度でもお客様を失望させてしまったら、彼等は即座にアーラから離脱してしまいます。顧客というものがが「気まぐれで、移り気」なのは世の常ですが、「信用」というものは一度の失望で脆くも崩れてしまいます。それだけに私は常日頃「市民の半歩だけ先に行っている」事業をやることに気を配っています。脳科学では、ある価値観を受容するために人間は脳に過重なエネルギー負担を強いる、とされています。人間の脳は猿の4倍もあるのに脳への血流量は猿の2倍でしかない、言われています。したがって、人間の「新しい価値」を受容するのに費やすエネルギーコストは膨大なものとなります。だからこそ人間は変化することを嫌って本質的には保守的なのだとも言えます。イノベーションを得意としない種類の生き物なのです。
「新しい価値」を受容するからこそ、舞台や演奏を鑑賞することで自身の裡の価値観等の「変化」を生み、鑑賞をスリリングなおもしろいものにするのです。しかし、だからこそ、そのために費やされる「認知コスト」と見合う「ベネフィット」とのバランスが、より多くの観客・聴衆の裡で取れるような舞台や演奏会でなければならない、と私は強く思っています。何歩も先に行ったようなものをやってしまっては、市民は観客や聴衆ではなくなり、居心地の悪い座席に押し込められて、舞台からははぐれてしまいます。いったん逸れてしまって集中が途切れた観客や聴衆は、座席に押し込められて無為な時間が過ぎ去るのをひたすら待つ羽目に陥ってしまいます。期待は裏切られ、果てしない失望ややり場のない怒りに取って代わります。それだけは絶対に避けなければなりません。
だからと言って、市民に阿る(おもねる)ような企画では市民はすぐに飽きてしまいます。米国の哲学者アラスディア・マッキンタイアは、「人間は物語を紡ぐ存在である。物語を紡ぐことで理解をする存在である」と述べています。「半歩先」なら想像力と創造力で、多くの市民が「自分の物語」を紡ぐことが出来ます。「自分の物語」を紡いでいるあいだは、舞台や演奏への「集中力」は決して途切れません。「認知コストと獲得ベネフィット」のバランスが取れている状態を維持できるのです。しかも集中力が高まっていれば、舞台や演奏の展開をあらかじめ予測する「予知力」も働いて、舞台や演奏をまるごと楽しめるようになります。その状態に、より多くの市民をいざなうことが「公共劇場」の使命の一つだと思っています。
上記のような鑑賞体験価値を獲得する「最大公約数」の観客・聴衆を創出し続けるのが「創客」の技術なのです。同様なことが「価格政策」でも言えます。1万2,000円の入場料で500人集めるのなら、6,000円で1,000人、4,000円で1,500人にチケットを購入してもらう方が、「公共劇場の作法」に適っていると私は思っています。では、興行として「成功」させるための残りの数1000円はどうするのかと言えば、それこそが市民への、あるいは地域社会への《投資》と位置づけるのです。さらにアーラでは、午前0時から当日ハーフプライスになるシステムを設定しています。これはそのままアーラで鑑賞したくてもままならない学生や低所得世帯向けのチケット料金となっています。だからアーラにはS席、A席、B席の券種はありません。それはおのずと市場の論理で形成されると考えているからです。「神の手」が働くのです。
海外の入場料金に比べると日本のそれは高すぎる、とよく言われることですが、それは海外では公的資金が投入されて廉価なチケット料金が可能となっているからなのです。同様なことが、アーラのチケット料金でも言えます。アーラのチケット料金は、東京の約半額で、名古屋はアーラの1.5倍に過ぎません。そのことで生じる興行収入の差額は指定管理料という税金で補填しているのです。まさに可児市民への「投資」、可児市という地域社会への「投資」という位置づけです。税金を使っているということは、それを原資として顧客の負担を軽減化する社会的義務を負っているということなのです。「公共劇場の責務」と言えます。
これらとともに「公共劇場」にとって重要なのは、「個的な欲求」にではなく「社会的な必要」に対応する事業を組み立てるという使命です。私は着任した2009年に、アーラの運営に対して「家族ときずな」というテーマを掲げました。アーラ自体の運営も、事業企画も、体温のある、温もりを感じられるものでやり通したいという気持ちは当初と何ら変化していません。
その延長線上にあるのですが、教育機関、福祉施設、保健医療機関、多文化機関、年度末におよそ4ヶ月の稽古で行う市民参加型大型事業等などの、コミュニティ・プログラムの充実です。これは当初から企図していたことでした。そのために、着任早々に事業制作課を二分して、マーケティングとアウトリーチなどの市民に係わる事業を所掌する顧客コミュニケーション室を新設しました。アウトリーチやワークショップは年々、量質ともに右肩上がりで伸びています。アーラでは市民に係わる事業を総称して「アーラまち元気プロジェクト」と呼んでいますが、今年度で年間500回を超えて、来年度には人間国宝常磐津一巴太夫の月一回のワークショップを含めて約530回を超えようとしています。来年度事業予算の3分の1になる約4000万円が「アーラまち元気プロジェクト」の予算になっています。これはほとんど収入のない事業ですから、すべてが可児市民と地域社会への「投資」といえます。
英国の地域劇場は、たとえばWYPは、リーズ市に本社機能のある巨大百貨店チェーンのマークス・アンド・スペンサー等の企業からファンドレイズをしてコミュニティ・プログラムを推進しています。残念ながら、日本では大企業の本社機能は東京に一極集中しています。むろん、可児市には高額なメセナを決済できる本社機能のある企業はありません。したがって、コミュニティの健全化へ向かうプログラムへの「投資」は公的資金を投入するしかありません。地域の公立の劇場ホールで、本来は大きな規模で行われなければいけないコミュニティ・プログラムが拡がりを見せないのには、そういう理由もあるのです。
「公共劇場」と地域社会の関係には「投資」による健全なコミュニティの形成という思考回路がなければなりません。何のために巨額の税投入をしているのか、決して芸術振興による先駆的、芸術的評価や成果や空文句としての文化振興のためにではありません。どのようなまちを創るのか、どのような市民生活の創出に期待するのかという視点を失ってしまえば、劇場ホールは一部の愛好者のためだけの施設になり、多くの市民にとっては負担の大きなハコモノに堕してしまいます。たとえば、新作主義の日本の演劇土壌に対するアンチテーゼとして、かつて評価を受けた旧作をリメイクするアーラコレクション・シリーズは、今年度で6本の舞台を創り、可児公演(8ステージ)東京公演(8ステージ)と地域巡回公演(8?12ステージ)をしていますが、そのおよそ25ステージ前後をトータルすると約2000万円の「赤字」になります。
しかし、1ヶ月半ものあいだキャスト・スタッフが可児に滞在して30人強のサポーターをはじめとする市民と日常生活で交流し、ショーウインドウ機能のある東京で公演を打ち、全国各地を回ることで、市民はアーラのある可児というまちに住んでいることに喜びと誇りを持ってもらえています。数年前までは「可児」(かに)と呼んでもらえなかった東海地方の小さな町が、国の特別支援劇場音楽堂として広く知られるようになってきました。「赤字」は、このシティプロモーション経費としての「投資」であると私は思っています。その結果、可児市民が自分のまちを誇れるようになれば、他のまちの人々が住んでみたいまちとなれば、「投資に対するベネフィット」という健全な精算は成立するのです。
つまり、「公共劇場」とは、それ自体が決して「政策目的」ではなく、公共政策を遂行するための「政策手段」としての投資装置であるのです。来年度以降は、英国随一の地域劇場WYPとの提携が動き始めます。21年間名古屋市の愛知芸術文化センターで開催されてきた「世界劇場会議国際フォーラム」も来年度からは可児に舞台を移します。いよいよ「国際化」に向けての試行が始まります。東京を経由しないで外国と繋がり成果を生み出すグローカルな地平に踏みこみます。経年の決算を精査しなければなりませんが、着任当時から温めていた入場料収入と施設利用収入の1%を、アジア・アフリカの子どもたちの教育と医療にNGOを通して寄付する構想も持っています。アーラという装置を通して可児市民が世界に繋がる、アジア・アフリカの子どもたちと繋がることで、可児市民が自分の住んでいるまちに誇りを持てればこれに勝るものはないと考えています。「真の公共劇場」を創出する闘いはまだまだ続きます。60代も半ばを過ぎた者にはタフな仕事ですが、やりがいのある仕事だと思っています。
この連載エッセイも155回になりました。何回まで書き続けられるかは神のみぞ知るですが、最後に、私が好きで、仕事の励みともなってきたロバート・フロストの『雪の宵の森にたたずんで』の詩の一節を書き記してこれまでの振り返りと、これから待っている厳しい仕事への決意の表明と、来年以降に向けての現在の心境を記したいと思います。
森は美しく、暗くて深い。
だが私には約束の仕事がある。
眠るまでにはまだ幾マイルか行かねばならぬ。
眠るまでにはまだ幾マイルか行かねばならぬ。
「Stopping by Woods on a Snowy Evening」