第153回 私の裡に生まれた「物語」から始まったアーラの建て直し。
2013年9月11日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
「どうしてアーラのような劇場を考え付いたのですか?」。視察に訪れた人たちの多くがそういう質問をします。来館者が年間43万8000人(2012年度実績)にのぼり、一般的な公立ホールではまったくやっていない様々な仕組みを導入しており、民間の劇場でも考え付かない顧客サービスをやっているのですから、そのような疑問を持つのは当然と言えば当然なのかもしれません。「ならば、皆さんは、皆さんのホールの現状を劇場ホールの理想だと思っていますか?市民の皆さんは皆さんのホールを大切なところと感じているでしょうか」と問い返します。そうでないなら、すぐさま改革に着手すべきだと私は思います。
アーラと他の公立ホールとの違いは、私と視察に訪れた人々とのあいだにある、劇場に託す思いの相違と考えます。あるいは、劇場ホールに対して市民の方が持っている「物語」の違いだと思っています。外の世界を知らないと、人間はいま自分のいる世界で安住してしまう習性を持っています。「貴方たちはどうなりたいのですか?」と訊いたとしても、あるいは絵にかいたような「理想」は語れたとしても、劇場ホールの市民たちの裡にある劇場に対する「物語」のあり方を説得力ある言葉で語ることはできないでしょう。それは自分たち以外の優れた劇場が機能している在り様をつぶさに見ていないからです。市民の裡にある劇場に対する「物語」に思いを馳せていないからです。外の世界をしらない「井の中の蛙」になって、自分たちの価値観を市民に押し付けて劇場ホールに市民が託す「物語」を知ろうとしていないからなのです。
私は北海道劇場計画に携わった1996年から、北海道庁が計画を断念した2003年まで、計画に関わる直前に上梓した『芸術文化行政と地域社会 ― レジデントシアターへのデザイン』で構想した劇場(レジデントシアター)の北海道での実現に尽力をしていました。アーチストとスタッフが地域に滞在して作品を製作し、その一方で教育機関、福祉施設、保健医療機関と連携して道民が住みやすいまちづくりを媒介するツールとして文化芸術を援用するという、いまで言う「創造文化都市」のようなまちづくりをその単行本の中で構想していました。憲法13条に依拠する「福祉権的文化権=幸福追求権」を前面に押し立てて、「ある土地にすむということは(略)《<生存する》ということではなく《生活する》ということだろう。《生活する》ということは決して独りで出来ることではない。何らかのかたちで共同体に連なるパイプを持ち、そのなかに生きる」ことであるというオスカー・ワイルドのひそみに倣って、その媒介としての文化芸術と劇場を構想していたのです。
アーチスト・イン・レジデンス(AIR)を前提とした滞在型文化施設である札幌芸術の森、白山吉野谷村の工芸工房を視察して、自治体の想像力に一定程度の創造性の糸口を手繰り寄せ、一方では岡谷市で1993年頃から行われていた劇団離風霊船の演劇ワークショップの成果をつぶさに観察して「創客」というマーケティング概念を構築しました。また私自身が阪神淡路大震災の後に立ち上げた神戸シアターワークスの成立プロセスを検証して、レジデントシアターの可能性が各社会機関との連携で地域に豊かな果実をもたらすことを確信し、一方では滞在型製作事業をすることでアーチストの側にも大きな成果をもたらすことに着目したのがレジデントシアター構想の出発点です。その意味では、その構想は机上での、極めてドメスティックで、純粋培養的でしかなかったと自省を込めて、いま告白しておかなければなりません。『芸術文化行政と地域社会― レジデントシアターへのデザイン』は、海外事例をも含めた広い視野で書かれた地域劇場の健全なあり方を構想するものではなかったということを正直に反省しなければなりません。
しかし、『芸術文化行政と地域社会 ― レジデントシアターへのデザイン』をベースとした北海道劇場計画は、国際文化経済学会での研究報告後に急遽訪れた英国・リーズ市で、私の裡でにわかに具体性を持ち始めると同時に、さまざまに視点の転換を求められて変質を帯びて来ます。1998年の北部イングランドの、人口60万人のリーズ市でのことでした。当地にあるウエストヨークシャー・プレイハウス(WYP)を訪れたことが私の考えの大きな転機となりました。そのことが、いま思えばアーラの出発点だったのです。私が構想していた劇場とほとんど同様の、「双生児」のようなWYPの劇場の思想と活動と成果が、そこには紛れもない現実として実在したのです。これは驚きでした。まさに「コミュニティ・シアター」とか「パブリックシアター」と呼ぶにふさわしいプログラムとアクティビティが其処にあったのです。たとえば、WYPの「楽屋口」には封印がされていました。スタッフも俳優も市民も、すべての人々は正面の劇場エントランスから共に出入りするというのが、この劇場の地域社会への姿勢と理念のすべてを体現していました。
そして、午前中から多くの市民で賑わうロビーを見ながら私が思いを馳せたのは、この一人ひとりの市民の中には、それぞれ違ってはいるが「WYPという物語」が確実に醸成されており、それが彼らの足をWYPに向けているのだろう、ということでした。それこそが市民の、劇場へのロイヤルティであり、WYPのブランド力ではないか、という確信でした。私が計画しているのは北海道劇場という「プラットホーム」であり、そこに何を乗せてどのような物語を創造するかは道民一人ひとりに委ねられる」という、現在のアーラではごく当然になっている考え方でした。私自身の北海道劇場計画の「質」が大きく変わったのはこの機を転換点としています。前回のエッセイにも書きましたが、米国のコミュニタリアニズム(共同体主義)の哲学者アラスディア・マッキンタイアは、「人間は何かを理解するために物語をつむぐ存在である」と書いています。さらには、「行為の連続体が理解可能となるためには、ある文脈が必要」とも書いています。この「文脈」とは「物語の連続性」のことです。「物語」を連続的に紡ぐ環境があって初めてWYPや北海道劇場やアーラへの帰属性を人々は醸成できるのだということなのです。
北海道劇場計画の建設用地が札幌駅南口の高度利用地区であったために、設けなければならない延べ床面積は膨大なものになりました。通年でミュージカルをやっている外国人観光客にもコミットする大劇場1000席(オケピ使用時)?1200席、演劇専用の1ヶ月公演をする、劇場会員をおもな観客と想定する中劇場600席、地元文化団体の発表の場と子供たちだけで運営するエンジェルシアター各200席の二つの小劇場、そのうえ沢山の稽古場を設けても床面積は足らず、パン工場と大きな調理場のあるレストラン、舞台裏にあってJRの発着を見られるシガーバー、マイカップの紅茶とケーキを楽しめるティーラウンジ等の他にも、来館者が「物語」を紡げる良質な環境を提供することのできるテナントを多く入居させる必要がありました。パン工場は地元の障害者就労支援施設に任せて、常に劇場内に焼き立てパンの香りがする「物語」を企図しました。大きな調理場は高齢者の宅配弁当が大量につくることができるようにすることが目的でした。教育、福祉、保健医療のニーズにも対応できる地域の社会機関としての北海道劇場を構想していました。そのキーワードは「物語」でした。それぞれの施設と人々の裡で紡がれる「物語」でした。完全にアーラの原形が透けて見えるような北海道劇場計画でした。
「どうしてアーラのような劇場を考え付いたのですか?」と質問されると、私はWYPと出会った時の私の裡に生まれた上記のような「物語」をお話しします。「社会機関としてのアーラ」や「芸術の殿堂より人間の家へ」という、全職員と共有するミッションは、このときの「物語」が発火点となっています。「みんなの劇場」というのがWYPとの出会った時のWYPの印象です。「みんなの劇場」になるためには、そのためのハードの環境を整えてクォリティの高い、人々が豊かな「物語」を紡げるプラットホームを用意すること、そして事業に柱をつくって、ゴッタ煮のような、闇鍋のような何でもありの事業構成ではなく、「物語」が生まれる環境の連続性を担保すること、そして何よりも一番大切なことは職員の雇用環境を整えて、ヒューマンウェアが市民とのあいだに紡ぎ出す「物語」の連続性を保障することです。就任してすぐに職員全員を正規雇用にしたのにもそういう企図がありました。
全国のいたるところの劇場ホールを歩いていますが、事務所に入って多くの職員がデスク張り付くようにく座っているところは、まず活発に活動していない駄目な施設です。私がアーラにはじめて出勤した時もそういう光景が事務所にありました。パソコンと向かい合っているが、Yahoo等のポータルサイトを見ている者ばかりでした。活発に動いている劇場ホールは、職員が館内を動き回っていたり、地域にアウトリーチの打合せ等に出向いていて出払っており、事務所内のデスクに空席が多いのが特徴です。働き甲斐を持っている職員ほど、彼らの裡にも多くの事業を通して、多くの市民とのあいだに紡がれた「物語」が息づいているのです。したがって、その「物語」を資産と考えるべきなのが劇場経営の根幹なのです。指定管理者制度の導入以降の「3年雇止め」の非正規職員の激増は、劇場ホールの経営の未来を根幹から揺るがすことである、と申し添えておきます。