第145回 来し方を振り返り、行き方を考える ― 生きる意欲にあふれる誇れるまちへ。
2013年3月6日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
舞台芸術の振興だけを単一目的としているかのような、あるいは時代の先端芸術のみを競うように「青田刈り」している公立の劇場ホールは、その多くが大都市圏に集中していますが、「生きる意欲の溢れる、誇れるまちづくり」のためのミッションを掲げて、芸術よりも「人間」をど真ん中に据えて健全な「まちづくり」の拠点施設としてダイナミズムを持って運営されているのは、全国で可児市文化創造センターalaくらいではないでしょうか。先般、新しい条例づくりの第一歩として若手中堅の市役所職員対象に講演をしていてふとそう思いました。
「単なる文化振興条例ならいらない」と常々言い続けてきましたが、可児市では、地域の課題解決のために文化芸術を介在させ、その拠点施設として可児市文化創造センターalaを位置づけようという「創造のまちづくり文化振興条例」の検討制定に動き始めました。文化振興を単一目的とした条例を作ったとしても、ほとんどの市民には縁遠い、身近な生活課題とは関係のないものでしかない、というのが私の年来の考えです。文化芸術の創造性と革新性を梃子にして健全なまちづくりをしていく、というのが地域劇場の本来の経営姿勢ではないでしょうか。大学の教員をしていた頃からそう思い続けてきました。「創造のまちづくり文化振興条例」は早ければ2年後には、その全容が皆さんの目に触れることになると思います。「劇場法」施行後のモデル条例にしたいと思っています。
可児市文化創造センターalaの館長兼劇場監督に常勤として赴任して、まもなく5年目が終わろうとしています。そして、着任時に、越えなければならない「壁」のように立ちはだかっていた組織的な病弊、活気を感じられない職場環境など、険しい山の高さの前に立って何年かければこの「壁」を乗り越えられるのかと、当初は愕然として、しばらくは茫然としていたことを思い出します。それから一年経った頃に、それが「山」ではなく、谷底から山の高さと谷の深さを同時に見上げていたことを知らされる出来事がありました。私の赴任する一年以上前に、館長をつるしあげるという集会が夜中まで行われたことがあり、また不穏当な怪文書が流れるということもあったと聞かされました。その怪文書をこの目で見ました。さすがの楽天的な私もいささか非観的になりました。事務所内に活気がなく、会話がひとつも聞こえないような職場環境だった理由が何故だったのか、そのすべてが理解できたのです。うろたえることはありませんでしたが、気は引き締まりました。長い仕事になりそうだ、と思いました
それでも「できる」との確信が揺るがなかったのは、劇場施設のポテンシャルの高さと、行政からの派遣職員だった当時の篭橋事務局長との馬が合ったからでした。彼はほとんど私の思い通りのことをやらせてくれました。大学のあった宮城と劇場のある岐阜と東京を一週間で「周遊」して馬車馬のように働いた非常勤の一年間でしたが、彼とはたまに行く居酒屋でへべれけに酔っぱらって「アーラへの夢」を語り合いました。いくら飲んでもアーラのことばかりを話していました。当時の悲惨な状況からすれば「ありえない」ことばかりを語り合っていました。それでも彼と私とのあいだでは、それは実現可能な「夢」でした。馬が合ったこともありますが、「夢」を共有できたからこそ、個人的には最大の危機だった時期をかなり軽やかに乗り越えられたのだと、いまにして思います。
常勤になった1年目、2年目は、中央になかなか認められない悔しい思いを嫌というほど味わった時間でした。大学での研究対象だったアーツマネジメントとアーツマーケティングを総動員して、全国で前例のない経営システムを編み出しました。市民の支持も急速に高まっていましたが、それでも全国的には本当に誰も振り返ってくれない、砂を噛むような日々を過ごしました。可児と東京との距離が実際よりもはるかに遠いことを実感する毎日でした。「熱伝導率」の悪さには辟易としました。可児という場所が地政学的な不利を背負っていることを身に染みて思い知らされた2年間でした。それでも「夢」を語り合い、一歩でも経営を進化させようと思い続けて経営進化の作業は間断なく続けていました。事実、劇場経営の手法のディテールとマーケティングは年々歳々、確実な歩みで進化して行っていました。議会や市民のアーラへの支持も、にわかに雲が晴れるように実感できるようになっていました。いつかはアーラの劇場経営の情報が中央に届く、いったん届けばあっという間に雲間が晴れて加速度的に認知が広まる、と信じるしかありませんでした。そう考えていた、というよりそう自分に言い聞かせていました。3年目の終りに近づいた頃に2010年度の地域創造大賞(総務大臣賞)を頂けたのが、最初の中央からの「認知」でした。職員とその喜びを分かち合いました。この職員と喜びを共有できる職場環境が、私たちの劇場の「強み」のひとつです。
年度が明けて、文化庁の「劇場音楽堂からの創造発信事業」で地域の中核施設として5年継続事業の採択が決まりました。補助額から見ると一気に全国で16番目の位置にランクすることができました。「ようやく動き始めた」という感慨がありました。2段目のロケットに点火する、いまが時だと思いました。これでベースキャンプはできたと考えました。あとは事業の仕組みと経営とマーケティングの手法の進化に邁進すれば結果はおのずと出る、との確信がありました。アーラの劇場経営の一方の柱である、アウトリーチとワークショップ等のコミュニティ・プログラムをまとめた「アーラまち元気プロジェクト」は、その前々年度から始まっていましたが、それをどこまで拡大して、質の高い充実した仕組みにできるかが、何よりもそれからの数年間の課題であると思えました。
「アーラまち元気プロジェクト」は私が館長に就任して2年目が事業開始の初年度です。初年度の2009年度は年間267回で参加者数は3,873人、2010年度は328回11,433人という実績でした。手間と時間のかかる地味な仕事だけに、アーラの開館前の議会で担当部長が答弁した「職員定数23人」という縛りが足枷になっていましたが、コミュニティの健全化がアーラの重要なミッションのひとつである以上、ここを膨らませて市民の日常に寄り添わなければならないと、思い切りアクセルを踏み込みました。2011年度の「アーラまち元気プロジェクト」は、354回13,996人でした。回数、参加人数とも微増にとどまりましたが、コミュニティ・プログラムを進めるのに必須の「5人のプレーヤー」(ファシリテーター、参加者、参加者の親族、施設の職員、マスメディア)という年来の私の考えから言えば、その役割をわきまえたコーディネイトを担当職員が心がけることで、対象施設の課題解決に寄与する仕組みづくりなど、質的には相当進化できたと考えています。昨年度統計はまだ出ていないのでどのくらいになっているかはまだ分かりませんが、ある程度の成果は出せているのではないかとの確かな感触はあります。
年度が明けてこの4月の2013年度からは、毎週水曜日にアーラ内で行われる高齢者向けの「ココロとカラダのワークショップ」、核家族化から孤立しがちな若い母親と乳幼児のワークショップ、木曜日に実施されるフリースクールへのアウトリーチである「明日のワークショップ」、これも毎週実施することになります。孤立しがちな高齢者や若いお母さんの「仲間づくり」は社会状況からみれば緊急の課題です。2013年度の「アーラまち元気」はおそらく年間450回を超えるでしょう。参加者数の20,000人超えは確実になります。現在の職員23人という定数ではこれが限界といえます。職員の負荷を減少させるために定数の壁を破って増員に踏み込まなければいけない時期に来ているとの現状認識はあります。今後は職員の「時間外勤務」の増減に細心の注意を払わなければならない、と思っています。危険水域に入ったら、すぐに職員募集の手当てをしなければなりません。それでも文化芸術によるまちづくりという地域劇場の公共的・社会的使命の到達点には辿りつけそうだという気持ちはあります。さらに市民に寄り添ったサービスを提供できる、という思いはあります。
社会的使命に対する一方の芸術的使命では、過去に高い評価を得ながら何らかの事情で再演されていない演目をアーチスト・イン・レジデンスでリメイクして、可児、東京、全国地域と巡演するala Collectionシリーズが今年で6作目を迎えることになります。今年は鄭義信作の『秋の螢』(松本祐子演出)です。可児8ステージ、東京7ステージ、地域5ステージが予定されています。2014年度からの3ヶ年間は日本を代表する舞台俳優である平幹二朗さんの可児滞在での連続プロジェクトとなります。演目はまだ公表できませんが、シリーズ初の翻訳物、昭和10年代の傑作戯曲、平さんからの要望で出身地広島にちなんだ作品の三本にほぼ決定しています。来年の夏には東京と可児で記者発表をする予定になっています。
そして、このうちの一本を国際共同制作にする方向でプロジェクトは進んでいます。2月に英国からの4人の視察団がアーラを訪れた折、英国随一の規模と活動を誇る地域劇場ウェストヨークシャー・プレイハウスのCEOであるシーナ・リグレイ女史からの要望で、私と2人だけの話になりました。その折に提案協議されたのが両劇場の提携を進めようということでした。まだ非公式な話でしかありませんが、年度が明けてから英国に渡って、正式な文書を作成する手続きに入ろうと思っています。「人事交流」と「技術交流」、そして「共同制作」がその目的です。そのプロジェクトの一環として、2015年度あたりで同一作品を日英の俳優と日英の演出家、舞台美術家等のスタッフで各々の劇場で舞台を創り込むという、襷掛けの国際共同制作の仕組みを動かそうと考えています。これは日本で初めての国際共同制作の仕組みではないでしょうか。予算の問題はクリアしなければなりませんが、最終的には両国製作の舞台を東京で交互に上演したいと思っています。
毎年9月の第3土曜日に全国からJAZZファンたちが集まってくる『森山威男JAZZ NIGHT』も、2014年度からは全国展開することが決まりました。「フリージャズのメッカ」が人口10万人のまちであること自体が奇跡のようなことだと思っています。可児市のシティプロモーションとして、今後は毎年全国3カ所くらいの都市での開催を目論んでいます。alaColectionシリーズの全国展開と同じ意味で、人口10万人の岐阜県の小さなまち、何処にあるかもなかなか分かってもらえていない小都市のシティプロモーションとして、アーラにとっては重要な使命をもった仕事のひとつであり、ブランディング活動であり、マーケティング活動であると言えます。また、森山威男氏の要望で、彼の卓抜のドラムテクニックを記録に残して研究対象とするプロジェクトが、東京大学の松原隆一郎、東京芸大の長谷部浩両教授と私とのチームで始まります。現在文科省の科研費に申請する準備を進めています。
以上のことを、あと4年を目途に進めていきたいと考えています。というのは、10年を超える館長職は組織を停滞させると思っているからです。2016年度を私にとっての地域劇場のモデルづくりの「完成年度」にしたいということです。あとひとつやるとすれば、可児に住んでいることを市民が誇りに思えるようなコーズリレイテッド・マーケティングを仕組むことです。コーズリレイテッド・マーケティングとは、収益の一部を社会貢献等のプロジェクトに寄付することでブランディングをさらに高度化し、組織への支持と売り上げをさらに伸ばすという最新のマーケティング手法です。アーラでは、「アジア・アフリカの子どもたちの教育と医療」のためにNGOを通して収益の1%をそれに充てようと思っています。現在までのように順調に売り上げと補助金を伸ばせばなんら障壁はない、と考えています。
これは、可児市文化創造センターalaという「装置」を通して、可児市民が世界の貧困に苦しむ子どもたちと繋がるということです。そのことで、市民が可児というまちに住んでいることに「誇り」を持てるのではないか、と私は考えています。これは私だけの感覚なのかもしれませんが、何とかそういう地域劇場のヒューマン・オリエンテッドな「モデル事例」を作りたいと思っています。「誰かに必要とされている」、「誰かの役に立っている」、「誰かと繋がっている」という「実感」が人間の生き甲斐の実体であり、人々の「生きる意欲」につながると思うのです。可児市文化創造センターalaは、「生きる意欲に溢れる誇れるまちづくり」のために、まさに「人間」を中心に据えて、「人間の家」として存在しようとしているのです。