第140回 いまの時代、文化は不要不急か ― 市民文化祭を仕分けした不見識。
2012年11月26日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
「文化は基本反体制、行政と仲良く何かやるなんて気持ち悪い」。
この発言は、千葉県・白井市に構想日本から派遣された事業仕分け人が、市民文化祭事業を仕分けしたときのものです。白井市の文化担当者が言うには、隣接する四街道市でも同様の発言で文化の仕分けをしたそうです。驚くと同時に唖然としました。憤るよりも、呆れました。このような意識レベル、そして戦前の公安警察のようなアナクロな認識をもった人間が事業仕分けをしているなんてことが許されるのでしょうか。そんな人間を「識者」として派遣する構想日本の見識を疑います。
3年前の民主党がやった事業仕分けも、「市場原理主義」と「小さな政府」が何よりも優先する唯一の正義かのように考えている人間が不躾な仕分けをしていて唖然としましたが、「文化は基本反体制」、「行政と仲良く何かやるなんて気持ち悪い」は、それ以上というか、それ以下の人間が吐いた言葉としか思えません。その仕分け人の不見識にも驚きますが、その程度の人間を派遣する構想日本の無責任さには憤りを禁じ得ません。事業仕分けは、不要不急の事業を仕分けして、重要な政策課題への財源を確保するのが目的であるはずです。「手段」と「目的」を混同する仕分けは、国民市民のためには決してなりません。
ならば文化事業は本当に不要不急なのでしょうか。文化政策は、重要で緊急性のある政策課題の財源確保のために大鉈を振るう対象なのでしょうか。現に文化予算の削減は近年多くの自治体で行われています。削減されていない自治体を探すほうが大変なくらいです。文化予算は受益者が限定的で削りやすい、という理由があるでしょう。しかし、本当に受益者は「限定的」なのでしょうか。文化は経済的余裕があって、時間のある人間のもの、という考え方は、日本では一種の「神話」のようになっています。しかし、本当に文化は一部の階級の独占物なのでしょうか。あるいはまた、独占物にして良いのでしようか。いまどき「文化は基本反体制」なんて考えている人間はほとんどいないでしょうが、「文化は一部の富裕層の独占物でよい」と思っている人間は少なくないと思います。これは文化に対する日本社会の誤解に基づくまさに「神話」です。本当は、心がザラザラして、人間関係がギスギスしている時にこそ、文化はその力を健全な社会形成のために発揮できるのです。そのことに気付いていない人間のなんと多いことか、と私はいつも溜め息をついてしまいます。だから、平気で文化予算を仕分けし、当然のように予算の削減をしてしまうのです。これは文化芸術に対する見識の低さ、誤解がなせる技なのです。
日本は1997年を境にして、加速度的に「生きにくい社会」になってきています。給与所得はこの年を境に現在まで一貫して下がり続けています。生活保護世帯もこの年を境にして右肩上がりに増えて来ています。認知犯罪数もその例外ではありません。自殺者数が前年より8,000人増加して30,000人を超え、以来30,000人台を推移して今日に至っているのはご存知の通りです。初犯青少年の再犯率が急増するのもこの年からです。一度過ちを犯してしまった若者に対して冷たい社会に、生きにくい社会になってしまっているのです。また、この年は消費税が3%から5%に引き上げられた年でもあります。格差社会と一言で済ますことができないほど、「生きにくい社会」は進行しているのです。所得格差は教育格差を生み、医療格差を生み、福祉格差を生み、いまや「いのちの格差」や「希望格差」にまで至っています。夢や希望を持つことさえ許されない階級社会が日本にも生まれて来ています。日本は分厚い中間層に支えられた国家でした。それがいまや急速に「階級社会化」しているのです。そんな環境下で社会的に孤立する若者や高齢者や障害者、失業者は年々拡大再生産されています。「生きにくい社会」という「格差汚染」は拡がり、長い間に築かれていた安心・安全の社会が大きく崩壊し、社会の様相自体が変質しようとしているのです。
文化芸術の根源にあるのは健全なコミュニケーションという原理です。コミュニケーションとは「価値の交換」です。「価値の交換」によって想像力と創造力が育まれ、相手を思いやる、相手に気遣う、相手の立場になってものを考え、行動するために必要な社会脳の発達を促します。健全なコミュニケーションなしに文化芸術は成立しません。健全なコミュニケーションは安心・安全なコミュニティを形成します。不健全なコミュニティを回復に向かわせます。したがって、現在日本が陥っているような社会の病理にこそ、文化や芸術の「果実」が必要なのです。90年代に盛んに言われた「文化のまちづくり」とは、この「果実」を地域社会全体に行き渡らせる「まちづくり」ということなのです。決して徒にハコモノを造ったり、大きな予算を費やして一過性の文化イベントを行うということではないのです。それは甚だしい誤解なのです。「階級社会」へまっしぐらという時代状況だからこそ、そんな社会だからこそ、文化芸術の「果実」がいまこそ必要なのです。
「福祉社会」というのは、すべての人々が憂いなく、各々の環境にあって幸福であることを感じて生きる社会のことです。日本では「福祉」というと社会的弱者への公的支援のことと狭義に理解されていますが、社会的包摂(social inclusion)という政策概念の浸透しているヨーロッパでは、文化を担当する部局が福祉政策を所管している部署に属していることも珍しくはありません。日本の「福祉」に対する一般的な考え方は、憲法二十五条の「生存権」に依っているものであることは明らかですが、それは万が一何かが起こった時のセーフティネットとしての「福祉」であり、「消極的な福祉施策」と言えます。「文化政策」は、憲法十三条の「個人としての尊重」と「公共の福祉」と「幸福追求権」に依拠してものと私は考えています。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」がその全文です。2001年に施行された「文化芸術振興基本法」も、今年6月27日に成立施行された「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」も、この憲法十三条を根拠としたものであることは疑いのないところです。したがって、文化政策とは「積極的な福祉政策」なのです。憲法第十三条の格調高い文言と比べると、冒頭に紹介した「文化は基本反体制、行政と仲良く何かやるなんて気持ち悪い」がどれほど低俗で、品位のない、根拠もない、悪質なデマゴーグであることが理解できるでしょう。
実に、いま、この時代状況だからこそ「文化」なのです。すべての人々が自尊の気持ちで生きる喜びを感じて暮らせる社会福祉の実現のために、「文化」の潜在的能力を十二分に発揮させる必要があるのです。そういう社会的ニーズが高まっているのです。公共的ニーズと言っても良いでしょう。その拠点施設が劇場ホールである、という位置づけを、「社会的包摂」という概念とともにしたのが、今般成立した「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」であるのです。おそらく、いや確実に、構想日本から派遣された事業仕分け人はその法律の存在どころか、憲法十三条の文言さえ知らないで「文化は基本反体制、行政と仲良く何かやるなんて気持ち悪い」と言い放ったに違いないのです。
いまこそ、文化芸術の社会的効用を全面的に出動させるべき時です。アーラでは、「alaまち元気プロジェクト」を行って、健全なまちづくりを推進しています。昨年度は年間354回を実施しました。来年度は、「ココロとからだのワークショップ」として毎週月曜日で通年実施の高齢者対象のプログラムと乳幼児から不登校の子どもたちまでを対象とした事業を通年で実施します。おそらく年間450回を超えた「alaまち元気プロジェクト」が可児市内で展開されます。いまこそ文化政策を分厚く実施して、健全なコミュニティ形成を企図すべき時期なのではないでしょうか。冒頭の事業仕分け人の言葉からは、劣化する日本社会への危機感がまったく伝わってこないと感じるのは、私だけなのでしょうか。可児市はこの10月に、地域ぐるみの対応が急がれる小中学校のいじめ防止に向け、学校だけでなく保護者や市民らの責任を明記した「子どものいじめ防止条例」を施行しました。来年度から、「創造のまちづくり文化振興条例」の具体的検討が所管部署で開始されます。可児市はアーラの経営をはじめとする多様な施策によって、人々が生きる意欲に満ちた健全なコミュニティづくりに向けて大きく動き始めています。その中核に「文化と芸術の果実」とその発信拠点であるアーラがあることを、私は心から誇らしく思っています。