第139回 いま必要なのは芸術監督ではなくて、経営監督である。

2012年10月22日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

芸団協や平田オリザ氏の主導による劇場法が盛んに議論の俎上に上っていた一昨年あたり、公立劇場ホールの芸術監督の必置義務が言われていた時期がありました。そうすることが、あたかも公立劇場ホールの現在的に抱えている問題点を解決するかのような議論がなされていたのです。その頃の議論の中で平田氏は、全国にある公立の劇場ホールに、東京に一極集中している若い演劇・音楽的な才能の多くが全国に広く派遣されれば、彼らの就職先になるし、あわせて地域の公立文化施設の問題を一挙に解決できるのではないか、と主張していました。

しかし、私は、いま必要なのは「芸術監督」ではなく「経営監督」という実感を現場で持っていました。経営感覚と芸術的寛容さを持ち合わせていない「芸術監督」が地域に派遣されることで、むしろ現場に混乱が生じることになるのではないかと考えていました。

「経営」と聞くとほとんどの人が経済的利得(儲け)をあげることと考えてしまいますが、「経営」とは新しい価値のことであり、その経済的側面が売り上げと収益の最大化なのです。日本では欧米のように公的資金の支援を受けることで入場料金の逓減化はなされていないように思っている向きがほとんどですが、公的資金の投入によって催事の入場料金のみならず、施設の利用料金も極めて低く設定されているのが日本の現状です。積算型価格設定では、地域社会の人々が鑑賞できない、利用できない価格政策になってしまいます。したがって、地域慣習価格という価格設定となっています。

たとえばアーラでは、フルオーケストラで7000円、演劇は3000円の入場料金となっています。これは名古屋のおよそ3分の2、東京圏の2分の1です。その差額分が公的資金で補填されています。施設の利用料金は東京のおよそ20分の1です。事業をすればするほど、施設を貸し出しすればするほど「赤字」が増えるということです。しかし、公立施設の経営には「赤字」、「黒字」という概念はありません。公立文化施設は「興行」をしているのではないのです。地域社会の健全化への「投資」をしているのです。したがって、その「差額」は投資と言う考え方をすべきなのです。それによって生まれる「新しい価値」と、それによる「変化」が「投資」に対する「成果」と考えるべきなのです。

ここでいう公的資金とは、国や広域自治体の補助金や交付金のほかに指定管理料も含まれます。いやむしろ、当該自治体から支払われる指定管理料がその中心であると言うべきでしょう。当該地域の住民から強制的に徴収した税金による指定管理料が直接的に施設に投入されているのですから、その地域社会に「新しい価値」という成果をもたらさなければならない責務はより指定管理料の方が強いと言えるでしょう。これなら全国2200とも2400とも言われる劇場ホールは満遍なく対象となるでしょうし、自治体の直営館は言うまでもなく直接的に予算化されることで税金が投入されているわけです。したがって、「経営監督」のミッションは、ブランディングをより進行させることで入場料収入と利用料金収入をできるかぎり上げて収支比率を高率化にすることと、あわせて当該地域に社会的な「新しい価値」と、それによる「変化」をもたらすことなのです。

文化庁の補助金では、経営責任者として特定の氏名を明記することが要件となっていますが、ここに記入されるのは、多くの場合、自治体から派遣された事務局長が充てられています。これは大いに疑問です。「経営」という概念からもっとも遠いところに「役所」があることは常識と言えます。例外的に経営のできる役所の職員はいるでしょうが、概して「経営監督=事務局長」という構図には無理があると考えています。文化庁にかつてあった芸術拠点形成事業の審査をした折に、直営館の一部に「芸術監督」の欄に市の担当係長の名前を記していた所がありましたが、それと同じ程度に「経営監督=事務局長」は常識的には考えられない人事配置だと私は考えています。

むろん、ここで私の言う「経営監督」には当然のことながら芸術的な一般的素養はなければなりません。必須です。知識として知っている、という大学のアーツマネジメント専修の学生程度では無理です。アーツの社会的効用を実感していることが望ましい資格です。つまり、劇場ホールが「新しい価値」を市民に提供することで「変化」が地域社会にもたらされることを信じることのできるだけの「実感」を持っていなければなりません。同様に、「芸術監督」のところで述べた「芸術的寛容さ」が必須となります。「芸術的な寛容さ」というのは、多様性を受け入れて、偏狭なフォーカスでアーツを捉えないということです。

冒頭の「芸術監督」のところで、これがないと地域では通用しないばかりか、地域住民を劇場ホールから遠ざけてしまう結果を生んでしまうと危惧したのにはそういう理由があるのです。それほど私はアーチストのすべては信用してはいないし、アーチストが来れば地域の劇場ホールが良くなるとも思っていないのです。「経営」の「け」の字も知らないから無理であると言っているばかりではないのです。この「芸術的寛容さ」がほとんどのアーチストの場合、決定的に欠けているから難しいのです。当然です。日本の舞台芸術にはスタンダードというものがありません。したがって、自分の表現のみを信じ込んでいるアーチストばかりが多くなってしまっているのです。「寛容さ」に欠けるというのには、そういう日本の舞台芸術の特殊性による理由があるのです。

いまの日本の劇場ホールに決定的に欠けているのは経営的な感覚と手法と手腕です。芸術監督、経営監督、技術監督と並べてみて、決定的に人材が払底しているのが「経営監督」です。経営についての専門的な知識を持ち、顧客サービスに必要な一定程度の感性を持っている人材にとって、劇場ホールがあまり魅力的な職場でないことが人材払底の大きな原因である、と私は思っています。しかし、実際にやっていると、達成感もあり、自己実現感もあり、市民に喜ばれて「ありがとう」と言われることの多いこの職場は、とてもおもしろいと思っています。「やりがい」がある職業だとも思っています。また、経営のいろいろな手法がまだ未開発な分野であり、それだけに大きな展開が可能な職業だとも思います。いままであまり脚光を浴びる職種でなかったことで、発信力に欠けているのかも知れません。ここに優れた人材が集まるようになれば、日本の公立文化施設は大きく変わるのではないか、そんな風にも思っています。

そのような現状認識もあって、来年2月8日、9日に名古屋・愛知芸術文化センターで開催される世界劇場会議国際フォーラムには、英国のトップクラスの経営監督たちを集めました。英国の地域劇場随一の経営者と認知され、劇場の再建のために英国芸術評議会から派遣されたりもするマギー・サクソン女史、英国芸術評議会の劇場部門ディレクターであり、かつては劇場経営の現場にいた経歴を持つバーバラ・マシューズ女史、「北部イングランドの国立劇場」と異名されるリーズ市のウエストヨークシャー・プレイハウス(WYP)の最高経営責任者であるシーナ・リグビー女史の3人が来日します。私がリスペクトする劇場経営の専門家ばかりです。

とりわけ基調講演をお願いしているマギー・サクソン女史は、現在のWYPの基礎を芸術監督のジュード・ケリー(現ロンドン・サウスバンクセンター芸術監督)とともに経営監督として築いて、そののちにかつてローレンス・オリビエが初代芸術監督をした英国の名門地域劇場であるチェチェスター・フェスティバル劇場の再建を芸術評議会の要請で行いその手腕を高く評価されている人物です。私が敬愛し、手本にしている地域劇場経営のエキスパートです。日本側からは、静岡・グランシップの館長で、全国公文協の副会長の田村孝子さん、定員108人という日本一小さな公立劇場を経営しているしいの実シアターの芸術監督兼経営監督で館長の園山土筆さん、それに私が基調講演をします。公立劇場の現状を改革するためには「いまこそ、経営監督が必要」という認識と合意形成してくれるセッションになるものと大いに期待しています。