第135回 「チクル」ということ ― 劇場人の立場から大津市いじめ自殺事件を考える。
2012年7月22日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
事件が発覚してから、大津市のいじめ自殺関連の記事が新聞に載らない日はありません。テレビのニュースでもワイドショーでもほとんど毎日のように報道されています。野田総理大臣までがテレビに出演して「見て見ぬふりをしないこと、これが一番大事です」と異例の発言をして、「人間として大事なのは、相手の立場になった時にどう思うか」であると語りました。原発再起動、社会保障抜き消費増税など、国民の立場になって考えられない貴方だけには言われたくない、という気分になりましたが、正論ではあります。
この生徒の「死」が焙りだした社会像はとても不可思議なものばかりです。この中学校は文部科学省の「道徳教育実践事業」の指定校になっており、いじめのない学校づくりを宣言して、「善行迷惑調査」というアンケートを生徒に行っていたそうです。教師が多忙で月一回のアンケート調査の予定が一学期に一回程度になっていたとはいうものの、「月一回の計画通りあのアンケートを実施していればいじめに気づけたかもしれない」との校長の談話がありました。しかし、教育長の発言には「アンケートの記載、イコール事実ではない」というのがあり、「いじめと自殺の因果関係は分からない」という不思議なコメントでした。
どうもこの教育長の発言は最初から奥歯にものの挟まった物言いだな、と思っていましたが、「家庭内のDV問題」を民事裁判で被告弁護人が持ち出しました。自殺した生徒の父親のDVだと、誰の入れ知恵か加害者生徒も転校先で吹聴しているという週刊誌の記事まであり、弁護人の主張はそれに沿ったものと考えられます。ただ、別の新聞の記事には、自殺した生徒の持ち物の鞄にはその朝に父親が持たせた弁当が入っていたというのがあり、このあたりは「藪の中」です。しかし、いじめと自殺の因果関係が分からない、という当初の学校側・教育委員会側の発言には誰もが違和感を持ったと思います。ごく普通の人間なら、いじめが自殺に結び付いたことは自明と考えるからです。その程度の推察なら普通の生活感覚を持っているなら誰もが出来るはずです。「因果関係は調査している」ならまだしも、「分からない」とは、一応の高等教育を受けて高い知性を持っている教育関係者なら、ご自分でも可笑しいと容易に気づくのではないでしょうか。これらの背景には、幾重もの「大人の都合」が錯綜し、重なり合っています。
私が一連の報道で一番違和感を持ったのは、トイレでのいじめを女子生徒が通報したあとに駆け付けた教師が「いじめではないか」と被害生徒に聞いたところ「喧嘩です、大丈夫」と答えたのでいじめとは認定しなかった、という校長の談話です。まずもって、「いじめられていた、助けてください」と子どもが教師に訴えると思っているのでしょうか。学校側の現状の認識の浅さに違和感があります。もしそう訴えたとしたら、それは「チクリ」です。つまり、そういう行為は最も卑しむべきものと生徒の側では感じているのです。それほど、教師と生徒のあいだには深い溝が横たわっているのです。「大丈夫」と言われて無邪気にその言葉を信じる学校側の感覚は滑稽でさえあります。問題はディスコミュニケーションなどという生易しいことではないのです。修復の手がかりの見つけようのない「断絶」です。「チクル」という言葉には、「裏切り」というニュアンスと、「権力を持った軽蔑すべき者」に庇護を頼むという行為であり、二重に軽蔑され、唾棄されるべき依存行為という意味があります。彼は「チクル」ことを選ばずに「死」を選択してしまったのです。それは乱反射する時代から被害者生徒が受けた紛れもない「被害」です。彼は二重の意味で被害を受けていたのではないでしょうか。二重の意味で「被害者」なのです。
野田総理にだけは言われたくないが、「相手の身になって考える」という想像力は、人間を社会化するという意味で大切な健全な社会を形成する機能です。額の後ろ側にある前頭連合野という脳の部位を脳科学では「社会脳」(ソーシャルブレイン)と呼びます。この部位が、相手の身になって感じる、考える、考えてみずからの行動を選択する、という社会性をつかさどっています。つまり「想像力と創造力」をつかさどっているのです。この部位の発達が人間を社会化します。幼児が時に残酷な行動をとったり、周囲に迷惑な大声を出したりするのは、この部位の未発達による社会性の欠如が要因なのです。
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脳科学的に言えば、額の後ろにある前頭連合野の発達によって、社会性の洗練と人間的な豊かさが、つまり「想像力と創造力」によって「場の空気」や「相手の感情」を読み取る社会的能力が発達するのである。人間が「社会的動物」と言われるゆえんは、人類が地球上に現れてから400万年から600万年をかけて前頭連合野を発達させた結果であり、それによって他の動物と明確に峻別される。この部位は「社会脳」(social brain)とも言われている。その部位の未発達や損傷が、協調性の欠如や、独善的な振る舞いや、思い遣りのなさや、気遣いのなさを、そして終には他者に対するアパシー(無関心、感情鈍麻)に至ることは脳科学によって実証されている。この脳科学の実証的な根拠が、コミュニティの衰退と人間的な劣化という日本の今日的問題と関連することは想像に難くない。
衛紀生『創客の劇場経営』第4章「どんな鳥だって、想像力よりは高く飛べない」より
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人間は社会的動物であり、社会化されていく存在なのです。大津いじめ自殺事件の加害者の証言には「じゃれ合っていただけで、遊びの範囲でいじめではない」というのがあります。しかし、その行為が相手にどのように受け止められて、感じられていたかに思いを至らせられなかったというのは、社会脳がつかさどる「想像力と創造力」が彼等には欠如していたのだと私は考えます。この社会脳は「意志、学習、言語、類推、計画性、衝動の抑制、社会性などヒトをヒトたらしめている」のであり、「思いやり」や「気づかい」や「心くばり」という人間が生きていく上に必要な社会性を制御しているのです。子ども達だけではありません。この観点から言えばモンスターペアレントも同様なのです。したがって、この社会脳の未発達は当人にとっても、社会にとっても非常に危険なのです。彼等は必ず周辺社会との不適合を将来的に起こします。いじめていた当事者が、いずれは社会に適応できずにドロップアウトせざるを得なくなるということです。人間関係を健全に築く能力に欠けるために社会的に孤立してしまうのです。
この社会脳の発達には「想像力と創造力」の高次化が必要なのですが、私はそれには小説や詩を読んだり、演劇や音楽や絵画を鑑賞したり、多くの人々とコミュニケーションを交わしたりすることが非常に大切であると思っています。子どもたちに芸術鑑賞をさせることが必要であると声高に言いながら、それを「情緒教育」という抽象的な理屈で正当化するのは、もうそろそろ止めるべきです。それは紛れもなく社会脳の発達を図る、子ども社会化するために必要なのであり、子どもの舞台鑑賞にはその目的にかなった仕組みを設計すべきと思うのです。「想像力と創造力」でもって音楽を楽しみ、演劇を楽しむ仕組みは用意されるべきと考えます。イギリスでは、子どもたちの演劇鑑賞の前に、演出家や俳優による教師向けの作品解説的なワークショップが用意されています。教師たちはそれを受けてから子どもたちに鑑賞する作品のことを話し、子どもたちと話し合い、意見を交わし合うのです。公立劇場ホールは、そのような子どもたちの社会化に寄与すべき機能を持たなければならないでしよう。
いじめを防止するために大人たちはすぐに「何々委員会」をつくったり、「いじめはいけないこと、犯罪です」と子どもに言い聞かせる機会をつくったりしますが、それでいじめがなくなると思うのは無邪気に過ぎませんか。「対症療法」を施すことが大人たちの免罪符になるのではないでしょうか。何年かけても私たちは子どもたちの「社会脳」が発達する機会を設け続けなければなりません。それほど私たちは「大きな負債」を抱えた社会に生きているのです。文部科学省や教育委員会や学校は、偏差値を上げることよりも、人間力を涵養することに傾注すべきです。そうすることで自尊の気持ちと自己肯定感を持った子どもが育ちます。そういう子どもは生きる自信を持って物事に対処します。ここぞという時にはちゃんと勉強をするメリハリのある生き方のできる子どもに育ちます。偏差値が高ければ人間力があるとは必ずしも言えないのです。急がば回れ、なのです。もうそろそろ偏差値教育から卒業して、人間力教育に踏み込む時代なのではないでしょうか。それほど時代は「病んでいる」のです。
何年か前のマスコミの調査で、数値は正確に記憶していませんが、相談する相手として64%が「友人」、次いで「両親」の20%台で「教師」は10%台前半だったことを思いだしました。学校に配置されているスクールカウンセラーも「教師」の範疇にはいるでしょう。様々な悩みを打ち明けられる第一が「友人」であるということは非常に大事なことです。これは大人だって同じではないでしょうか。「社長」や「上司」に悩みを打ち明けるよりも、心の重石を打ち明けるのには気の置けない「友人」を選ぶのではないでしょうか。劇場ホールは、そのような「友人」をワークショップや鑑賞行為のなかで生み出していく機能を持っています。それはコミュニケーションの集積が「コミュニティ」だからです。文化芸術の社会的機能を通して築かれるコミュニティは風通しがよく、安全であり、安心な人間同士のネットワークです。「チクル」などという言葉が死語化する身内的なコミュニティです。「他人の悲しみが自分の悲しみに、他人の喜びが自分の喜びに」なるようなコミュニティです。劇場ホールの潜在力はまだまだ発揮できていないと思っています。社会から必要とされる劇場ホールとは、そのような声に応える存在でなければならないと、今回の事件であらためて考えています。