第134回 「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」を概観する。

2012年6月24日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

6月21日、「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」が全会一致で衆議院において成立しました。16日に参議院先議で可決していたので時間の問題だろうとは思っていましたが、消費税政局のこともあり、国会の延長は確実と思っていましたので8月の会期末かなと予想していましたが、存外に早い審議で成立したことに少々驚いています。昨年今頃の「劇場法論議」では、「つくる劇場」、「見る劇場」、「集う劇場」という階層化と「芸術監督・経営監督・技術監督の必置」を前提とした意見が活発に交わされていただけに、まったく違う視点から法律の方向性が考えられたことに安堵すると同時に、これからその法文条項を吟味して、私たちの社会の未来を希望あるものにするために劇場音楽堂等が社会的・公共的役割を担保する施設となるように解釈しなければならない重責もあわせて感じています。

一昨年からのいわゆる劇場法(仮称)の論議の中心となっていた「階層論」は、全国に2200あるとされる公立劇場ホールを整理して、その役割に線引きをして「選択と集中」という公的資金の配分方法にシフトする、という意図がありました。「選択と集中」という財政施策それ自体は、税収の落ち込みと公的債務の拡大から言って正当な政治的判断であると思います。ただ、その前提となる「多すぎる公立文化施設」という考え方は、全国各地に設置されている施設を問答無用に切り分けてしまうという点で、私には承服しかねる手法であると感じていました。むろん、その「多すぎる」状況をSWOT分析すれば、「弱み」と捉えられる面もありますが、私は視点を変えさえすればそれが「強み」にもなり「機会」をもつくりだすスケールメリットにもなると考えているのです。

そのためには、従来の文化政策の考え方を大きく転換させなければなりません。「文化振興」を最終目的とする政策から、「文化振興」をすることでどのような社会を実現しようとするのかという社会政策的な目的を持った施策へ大きく転換することが、実は社会からの要請としてあるのだという事実に私たちは目を向けなければならないのです。「文化振興」はあくまでも手段、と私は考えています。それによる社会的果実は何なのかを明確に意識した施策を立ち上げるべき時代に至っていることに、私たちは自覚的にならなければならないのです。

新自由主義やネオコンの台頭と暴走によって生じている格差社会の進行と、そこから生じる社会の歪み、すなわち具体的には生活保護世帯の増加、自殺者の年間3万人超え、認知犯罪数の増加、青少年の再犯率の増加、さらには給与所得の継続的な減少、これらは1997年を前後して起きている社会変化です。「生きにくい社会」の現われです。私が繰り返し述べている「いのちの格差」の始まりがこの97年前後なのです。この時期あたりから、文化政策は、文化芸術の社会的包摂機能を社会からの要請として発揮することを強く求められているのです。それが昨年2月に閣議決定された「第三次基本方針」に「文化芸術は、子ども・若者や、高齢者、障害者、失業者、在留外国人等にも社会参加の機会をひらく社会的基盤となりうるものであり、昨今、そのような社会包摂の機能も注目されつつある」と具体的な文言として織り込まれたと考えています。

このたび成立した「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」の「前文」は、それを受けたもので、劇場音楽堂等を「人々が集い、人々に感動と希望をもたらし、人々の創造力を育み、人々が共に生きる絆を形成するための地域の文化拠点である」と定義して、さらに「個人の年齢若しくは性別又は個人を取り巻く社会的状況等にかかわりなく、全ての国民が、潤いと誇りを感じることのできる心豊かな生活を実現するための場として機能しなくてはならない。その意味で、劇場、音楽堂等は、常に活力のある社会を構築するための大きな役割を担っている」と、社会的包摂機能による公共的役割を担う存在としてその機能が期待されています。また、「現代社会においては、劇場、音楽堂等は、人々の共感と参加を得ることにより『新しい広場』として、地域コミュニティの創造と再生を通じて、地域の発展を支える機能も期待されている」と、劇場音楽堂等の健全なコミュニティ形成機能にも期待を寄せている。フランスの「反排除法」のように社会的排除と闘うために「公共サービスの使命として、排除と闘う国家は、文化施設に対して資金を提供する」という文言ほどは具体的ではないのですが、それでも目指すものの輪郭を明確に描いて格調高い「前文」となっていることは高く評価したいと思います。

次に、大いに論議された「芸術監督・経営監督・技術監督の必置論」ですが、多くは芸術監督こそ各館に配置すべきとの考えが主流でしたが、私はそれ以上に喫緊の課題としては「経営監督の不在」こそが公立劇場ホールの停滞状況の主因であると考えています。芸術監督は自身の芸術的信念で暴走する可能性が否定できません。そうなってしまえば、誰もそれをとどめる人間はいないことになります。90年代から現在まで、それが原因で混乱した事例はいくつもあります。最近では芸術監督がブログ上でヒステリックに財団を批判し続けた滋賀県の例があります。ましてや、東京の若いアーチストを地方の会館に配置するなどという考え方は無謀としか思えません。彼らにどれだけの芸術的な素養があると言うのでしょうか。近代古典も現代古典も知らない演出家や劇作家にどれだけの選択眼があるというのでしょうか。地域の会館は音楽も事業として行います。その素養はどうなのでしょうか。それにも増して、地域の特性を見極めてレパートリーを選択する「市民に寄り添う」経営感覚が彼らにあるとは思えません。したがって、芸団協や平田オリザ氏の「必置論」はひどく乱暴であると断じざるを得ません。

むしろ私は、経営監督の配置こそが劇場ホールの停滞している実状をブレイクスルーする決め手だと思っています。経営監督はプロモーターや興行師ではありません。文化芸術による地域経営の専門家でなければなりません。昨年の論議や文化庁の補助金申請の書類上は行政から派遣された職員、たとえば事務局長や事業課長、総務課長でそれを代行できるかのように誤解している面がありますが、とんでもないことです。経営学や経済学、行動経済学、行動心理学、公共政策学などの知見を持っていて、なおかつ文化芸術に強い関心があり通じている人間でなければ公立劇場ホールの経営監督は務まりません。そういう人間であるからこそ、たとえば芸術監督の暴走を押しとどめることができるのです。シェフの好き勝手なメニュー構成をチェックして、顧客満足の最大化を図れるレストランサービス業の経営者のような役割を期待されているのが経営監督なのです。ともあれ、芸術監督の必置義務が、「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」に組み込まれなかったのは正解であると安堵しました。ただ、経営監督をどうするのかという課題はまだ残されています。

ここまで読み進んでいただいて、さらに「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」の全文を読んで俯瞰していただくと(http://www.bunka.go.jp/bunka_gyousei/hourei/pdf/jyoubun.pdf)或ることに気づくと思います。第一章総則の第一条「目的」と第二条「定義」の箇所です。私は「劇場音楽堂等」は「手段」だと考えています。どのような社会を実現しようとするのかの「手段」です。しかし、ここでは「劇場、音楽堂等の活性化を図ることにより、我が国の実演芸術の水準の向上等を通じて実演芸術の振興を図るため、劇場、音楽堂等の事業、関係者並びに国及び地方公共団体の役割、基本的施策を定め、もって心豊かな国民生活及び活力ある地域社会の実現並びに国際社会の調和ある発展に寄与することを目的とする」と、「実演芸術の水準の向上」と「実演芸術の振興」を目的の一つに挙げています。私はこれも「手段」であると考えています。劇場音楽堂等の「主役」はあくまでも国民市民であり、彼らを最終受益者とするサービスの質的向上なのです。第一条の後段部分を抽象的な文言ではなく、もっと具体的に語るべきと考えます。

しかしながら、この法律の起草者の限界は第二条の「定義」でさらに明らかになります。第二条「定義」には「この法律において『劇場、音楽堂等』とは、文化芸術に関する活動を行うための施設及びその施設の運営に係る人的体制により構成されるもののうち、その有する創意と知見をもって実演芸術の公演を企画し、又は行うことにより、これを一般公衆に鑑賞させることを目的とするもの」とあります。「鑑賞させる」は劇場ホールの機能の一部でしかありません。たとえば可児市文化創造センターalaは、昨年度統計で37万1000人の来館者を数えていますが、チケットを購入して鑑賞にいらっしゃる市民はその10%前後であり、その90%は貸館貸室の利用者、読書や勉強に来る市民、DVDやインターネットをご覧に来る市民、お弁当を持っていらっしゃるファミリーや友だちなどの「ライトユーザー」です。このなかにはワークショップやアウトリーチへの参加者のおよそ2万人も含まれています。地域の公立劇場ホールの「目的」と「定義」は、「我が国の実演芸術の水準の向上等を通じて実演芸術の振興を図るため」や「実演芸術の公演を企画し、又は行うことにより、これを一般公衆に鑑賞させることを目的とする」ことを主たる目的としているわけではないのです。上記の「目的」と「定義」は、主に東京を中心とした大都市圏の公立の劇場音楽堂等や民間の施設の「目的」であり、「定義」なのです。「目的」は「実演芸術の振興」や「文化振興」によって「どのような社会を実現しようとするのか」であり、そのための拠点施設としての「定義」でなければ、国民市民から強制的に徴収した税金で設置し、運営している「劇場音楽堂等」の存立根拠を喪失してしまいます。それでは民間の劇場ホールとは齟齬があるという意見はあるでしょうが、そもそも公立施設と民間施設は出発点から目的が異なっており、存立基盤も違うのですから、一体として論じること自体に無理があるのです。したがって「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」は公立施設のためのものと考えるべきと思います。この「館長エッセイ」の読者の方は、私が一貫してこの法律が公立施設のための立法であるという前提で論じてきたことは理解していただけるものと思います。

第十四条「国民の関心と理解の増進」と第十五条「学校教育との連携」にも、解決しなければならない大きな課題があります。第十四条は「国及び地方公共団体は、劇場、音楽堂等において行われる実演芸術に対する国民の関心と理解を深めるため、教育活動及び啓発活動の実施その他の必要な施策を講ずるものとする」とありますが、私たち劇場関係者が腐心しなければならないのは、「実演芸術に対する国民の関心と理解を深めるため」ではなく、劇場音楽堂等という施設への関心と理解をソーシャル・マーケティングにより深めることです。必要な施設として社会的に認知してもらうことにほかなりません。ここでも法案起草者の文化への理解の薄さが露呈しています。私たちの仕事は「実演芸術の愛好者」を生み出し、育成することではありません。社会的必要としての劇場音楽堂等への認知を高めることなのです。

さらに十五条「学校教育との連携」も、国と地方公共団体の責務としているのですが、文部科学省直轄の行政委員会である教育委員会が障壁となって、学校へのアウトリーチに困難が伴っているという現実をどのように解決するのかが見えてきません。現実と乖離している「建前」でしかないのです。また、「連携」すべきは学校教育のみならずフリースクール、高齢者福祉施設、障害者福祉施設、医療機関、公民館、刑務所など、多くの機関との連携によって国民市民の「文化権」を守るべきと考えています。「学校教育」に特化する問題ではありません。守るべき「文化権」は、憲法第十三条に保障されている「幸福追求権」、「自己実現の権利」によって裏打ちされている基本的人権です。この法律を吟味すると、文化の社会的機能に対する視野が極端に狭いと感じます。

ここまで「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」を見て来ました。評価できる「前文」、いくつかの条項で「国及び地方公共団体の責務」を定めており、全体的には一定程度の進歩は認めつつも、「実演芸術の振興=文化振興」に劇場音楽堂等を押しこめることで、結果としてその優れた社会的機能を削いでしまっているという印象はぬぐえません。ここで何度も繰り返し述べているように(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_134.html)「文化振興」という狭い視野で公立劇場ホールの設置目的を規定すると、文化の社会的包摂機能はその内部に閉じ込められてしまうのです。社会化を阻害してしまうのです。全国2200の公立劇場ホールを、「階層論」のように整理することなくスケールメリットとするには、劇場音楽堂等を文化施設としてではなく、社会機関として機能させるという新しい認識と自覚と政策が必要となります。すべての公立劇場ホールに、その社会的機能を発揮させることで、日本には2200もの、社会的排除と闘う社会的包摂拠点施設が存在することになります。2200を「強み」とするパラダイム・チェンジです。それこそが、劇場音楽堂等を手段として機能させることで成果としての健全な社会形成を実現しようとする「新しい改革」を視野に入れることになるのではないでしょうか。