第133回 「積極的な福祉政策」としての劇場経営 ― 社会的包摂センターとしての公立文化施設。
2012年5月28日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
5月だけで9団体・個人の行政視察、劇場視察がありました。「館長ゼミ」への大垣市文化振興事業団の職員の参加を含めると11団体・個人にも上ります。その対応に費やされる時間と労力は膨大なものですが、それだけアーラへの注目が集まっていると考えれば有難いことと思っています。アーラは開館10年目に入っていますが、当初は施設や設備への視察ばかりだったと聞いていますが、今月の視察はマネジメントやマーケティングの仕組みや年間の事業の設計の仕方や運営の進め方に対する視察がすべてでした。北は北海道・岩見沢市から南は九州・久留米市まで、広範囲の関係者からの問い合わせに、アーラの現在と、とりあえずは満足できる程度には成果を出している指標なのだと思いました。
私は就任時にアーラを「人間の家」と規定しました。「芸術の殿堂」や「文化の殿堂」ではなく、市民をはじめとする様々な人々の豊かな経験価値とそこから派生する思い出のたくさん宿った「人間の家」を目指すことを経営方針の一つに掲げました。それは生きやすいコミュニティの創出を企図する劇場経営(マネジメントとマーケティング)を意味します。多様な人々が「集い・出会い・語り合い・知りあう」ための場としての劇場機能を設計することを意味します。これは、日本の福祉政策が何か事が起きた場合のセーフティネットとしての役割を果たす受動的な政策だとしたなら、生きやすい社会を形成するための「積極的な福祉政策」と言えるものです。
97年前後から一貫して進行している「生きにくい社会」にあって、公立劇場ホールは、大きな経済的な利得は生まないが、人々が支え合う、人々が必要としあう社会を構築することで「生きる意欲」と「自尊の心」を涵養する、まさに「人間の家」であり、それが目指すところは積極的な福祉政策としての劇場経営だと私は思い続けています。「生きにくい社会」は人間の尊厳さえも収奪するほど進行しています。97年に前年比約8,000人増と一気に30,000人を大きく超えて現在も減数しない自殺者数は、「生きにくい社会」が人間から尊厳さえも奪ってしまっている現況を端的に明示しています。劇場ホールは、他者と出会い、必要とされる自分を発見し、生きる意欲を、自己実現による生きる喜びを涵養する、社会的包摂による健全な福祉社会を構築するための拠点施設にならなければならない、と思っています。文化芸術の潜在力を信じれば、行き着くところは其処なのではないでしょうか。
もし仮に全国2,200あるとされる公立劇場ホールがそういう機能を多様に果たすようになったら、国民市民はそれらを「生きるために必要な施設」として認知するのではないだろうか、と私は夢想します。2200の社会的包摂機能を持った拠点施設は、90年代のホール建設ラッシュの「負の遺産」をコペルニクス的に転換させます。「生きにくい社会」での積極的福祉施策のセンター施設としてのスケールメリットは量り知れません。
視察に見えられた行政、議会関係者、NPO関係者には、前段でそういう話をします。そのあとでアーラのマネジメントとマーケティングの考え方をお話しして、「人間の家」への仕組みの具体例を列挙させてもらいます。いまでこそ舞台芸術と福祉との連関は社会的な認知を得られつつありますが、私が97年にそれまで連載していたものをまとめた『芸術文化行政と地域社会』を上梓した頃は、「無視」乃至は「袋叩き」状態でした。「福祉の道具になんかなるべきではない」という反発でした。95年の阪神淡路大震災の折に東京の演劇人に私の組織した「神戸シアターワークス」への協力を求めた時、若手演劇人から激しい言葉で批判されたこともありました。そういう意味では経世の感があるのですが、それでも私が劇場ホールの社会包摂機能と社会福祉への役割を言うことに抵抗感を持つ業界人は少なからず存在します。芸術至上主義者にとって私は、唾棄すべき考えの持ち主であることには変わりありません。
しかし私は、劇場ホールや芸術と社会とは、切れようのない連鎖によって持続継続的に作用反作用をしあっていると考えています。したがって、国や自治体がなすべき支援施策は、その「関係」に対するものであるべきと思っています。一般的に多くの人は一概に「文化振興」と口にします。しかし、その受益者は、文化施設や芸術団体にとどまってしまうのではないでしょうか。劇場ホールの運営やアーチストの創造に対する補助制度の充実を指して「文化振興」と私たちは思い込んでいるのではないでしょうか。卓越性のある良質なものを創造すれば、最終受益者たる国民市民は充足し、満足するというのでしょうか。
しかし、その考えは自己完結に過ぎます。あるいはそれは繰り返し上演される作品を創造する場合に限って言えることで、松井憲太郎氏の言葉を借りれば「レパートリーとしての確立」に限り公的支援は国民市民の財産をつくるという成果を生むのです。その地平では民間立であろうと公立であろうと同じことです。公立の劇場ホールへの公的支援の特殊性は、結果の卓越性への投資にとどまらず、芸術と社会の「関係への投資」をも含むものでなければならない、と私は思います。そこで教育、福祉、医療、環境、多文化共生、格差社会による歪みなどの社会的必要によるコミュニティ事業が支援対象として浮上してくるのです。その社会的必要に対して文化芸術の潜在力をどのように引き出して、仕組みを設計し、成果をアウトカムするかに対する投資なのです。公立の劇場ホールの社会的使命を全うするために公的支援という「投資」をするのです。公的支援は、健全な社会形成のために国・自治体が義務的に負っている「投資」と考えるべきです。いわゆる指定管理料というのは、そのような社会への「投資」をも含むものであると私は思います。
視察の方々には、こういう話から切り出して、アーラでの具体的な事例を説明しながらその成果を示します。視察に見られる中には、合併特例債で施設設置を計画している自治体や議会の方々がいらっしゃいます。また、現在ある施設運営が適切に進んでいないと感じてアーラに視察に見えた方もいらっしゃいます。これから施設設置をなさるなら、90年代に建設された「ハコモノ」の失敗を繰り返さない、その反省を織り込んだ運営計画を策定してほしいと思いますし、いまの運営や事業計画に「物語性」が欠如して悩ましい課題を抱えているところには、軌道修正が可能なことを伝えています。アーラの経営手法は、何処であっても援用できるものです。中核規模の比較的大きな地域でも、可児市より人口の少ない町でも、いずれにも適用できる経営手法です。まちの政策課題を実現するためにどのように劇場ホールを政策手段として活用できるかの経営姿勢の柔軟性があれば、アーラに類似した経営指針の施設はかならず現前すると、私は信じて疑いません。全国の多くの公立劇場ホールが、健全な地域づくりのための「積極的な福祉政策」として経営できること祈ってやみません。