第127回「地域慣習価格」の決め方と「投資」という考え方 ― 地域住民の基本的人権を遵守するのために。
2012年3月17日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
事業の実施にかかる経費をすべて積算して、その数字を客席稼働率70%程度(民間ではおよそ60%、公立施設では場所によっては80%を超える施設もある)の観客数で割っておよその入場料金を割り出す「費用重視型」の価格政策は、非常に合理的で、一見科学的なように思えるが、チケット購入者が予定数を満たさなければ積算する行為自体が非科学的で「とらぬ狸の皮算用」的に滑稽なものとなります。
この滑稽さは、価格政策だけではなく、ホール計画の場合にもあらわれて、まちの規模に不釣り合いなキャパシティになったりします。この場合、チケット価格はこの程度しか取れないとすると、事業の買い取り価格を予定チケット価格で割って割り出された数字から1500席前後の巨大なホール計画になってしまいます。むろん、そうなる要因はこれだけではありません。年に一回しか使わない文化協会の総会のために、あるいはこれも年一回程度のお稽古事の「おさらい会」の延べ入場者数が1500人だからと、それに見合ったキャパシティを市民は要求すしたりする。この数字はあくまでも延べ数なので、お稽古事のお客様は知り合いの出演しているところだけを観る「見取り狂言」的な鑑賞方法をとるのが普通なので、実数は1000前後とみてよいはずです。初めから終りまで見る客は10%以下ではないでしようか。一見科学的ではあるが、滑稽なほどに非科学的なのがホール計画のキャパシティの決定なのです。
中国地方のある市が1500席のホールを計画してアーラを視察に来たことがあります。「1500席はないと民間のプロモーターや新聞社、放送局の事業部が借りてくれない」というのです。貸館として使ってもらえない、というわけです。これもかなりに滑稽な話で、貸館は受益者負担に最低でも75%の指定管理料、つまり税金を乗せて維持管理経費と均衡させているのです。ちなみにアーラの受益者負担は10%程度です。つまり、貸館は稼働率が高くなるほど経費がかかり、最終的には受益者ではなくすべての住民の負担になるのです。だからと言って、民間の興行資本は市民のために入場料金を安くはしません。したがって、私から見れば「借りてくれない」は相当に滑稽な話なのです。滑稽というよりも、無知蒙昧というべきでしよう。直近の例では、人口8万5千の四国地方のまちが1300キャパのホールを、人口16万の信越地方のまちが1700キャパのホールを、人口14万の関東地方のまちが1500キャパのホールを計画しています。まったく劇場経営の実態とかけ離れて、マネジメント計画とセンスの欠如した、非科学的な机上のホール計画です。
ホールのキャパシティの決定が、顧客を無視した机上の空論で決められているように、価格政策の多くも、どうやら「なんとなく」決められているようです。近隣の公立文化施設の価格設定を睨みながらの「競争重視型」の価格政策をとっているのが一般的です。第一に「費用重視型」で決めるとすると、東京から遠方になればなるほど、旅費交通費、運搬費がかさみ、かかる経費や費用は地政学的に大きくなります。傾斜型に中央から離れている度合いでチケット価格も地政学的に高くなることになってしまいます。これは機会均等からいって不条理です。したがって、これらの二つの価格政策は非科学的であることは否めません。
ならば私の言う「地域慣習価格型」はどのように決めるのでしょうか。おおよその拠り所は「総経費」という供給側の事情ではなく享受者側の事情による「価格弾力性」にあります。「価格弾力性」とは、価格が変動しても需要が減らないことを「弾力性がない」と言い、価格が変わると需要に変化が生じることを「弾力性がある」と言います。たとえば、アーラの経験則でいえば、「小沢征爾」は1万5千円でも2万円でも「弾力性はない」ことが分かりました。演劇は4千円と3千円では「価格弾力性」におおきな相違が出ます。フルオーケストラのコンサートは、6千円と7千円では需要は変動しないのですが、8千円を超えると需要は急速に減少傾向となります。これらの「価格弾力性」がなくなる地点が「地域慣習価格」なのです。むろん、そこには経済事情や社会変動などが背景としてあります。「価格弾力性がなくなる」ということは、別の言い方をすれば、劇場通いが日常的な生活行動に近づいていることを意味します。食料品をはじめとする日常品に限りなく近づくことを意味します。文化芸術のハウスホールド商品化です。
公立劇場・ホールは、この「価格弾力性」を重視しなければなりません。別の言い方をすれば「需要の変動」に敏感に反応しなければなりません。チケット価格5千円で600人が入場するのと6千円で500人が来場するのとでは総収入は同じです。民間の興行会社はそのどちらかを恣意的に選択できますが、公立劇場・ホールは、住民から強制的に徴収した税金で設置し、運営しているのですから、当然ですが、アクセスできる人数の多い前者を選択するべきなのです。「文化の民主主義」とはそういうことです。「価格弾力性」を重視した「地域慣習価格」とは、より多くの税の拠出者に受益アウトカムする価格政策の考え方です。
そういう価格政策をとると現在のホールの客席数では「赤字」になる、という向きは絶対にあります。いきおい、キャパシティの大きなホールをつくらざるを得ない、と悪循環になってしまいます。ここからが問題なのです。公立文化施設には「赤字・黒字」という概念はありません。民間の興行会社にはあっても、パブリック・ベネフィットという公共性を重視される財にあっては「投資」と考えなければなりません。公立劇場・ホールにあっても同様です。たとえば、東京からの舞台を買い取って公演する場合、東京からA市までの人数分の旅費交通費、日当、荷物の運搬費、市内交通費などが公演費以外にかかることになります。これが公演費と同等程度か、それ以上という場合もあります。しかし、それを負担しなければ地域住民の「文化権」が守られないのだとすれば、その経費は基本的人権を守るための「投資」と考えるべきなのです。先年、3ヶ年だけで終わってしまった「舞台芸術の魅力発見事業」(旅費交通費・運搬費・日当の全額を補助する制度)はこの格差を国の責任で変えようとするものでした。ぜひとも復活させたいと思っています。
加えて、「地域慣習価格」による中央の生活水準から来るチケット価格とのギャップもあります。つまり、地域は二重に中央から文化的疎外を受ける可能性を持っているのです。「地域慣習価格」と「投資という考え方」は、その疎外をブレイクスルーするための手段と言えます。これは自治体及び議会と一体となって推し進めなければならない基本的人権を遵守するための闘いなのです。しかしながら、収支比率についは利用料金制度、資金調達などで許容できる範囲にする努力が求められます。ここでも、地方自治法総則第二条にあるように「住民の福祉の増進に努めるとともに、最少の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない」のです。公立施設である以上、これは当然のことです。