第124回 文化の民主主義のいしずえに― 人間の「生きる権利」にやさしい劇場音楽堂等の法制化を。

2012年1月21日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

1月13日に劇場・音楽堂等の制度的な在り方に関する検討会の第11回目が開催されて、およそ1年間にわたった検討内容がまとめられました。一昨年の12月にこの検討会が発足した当時は、創造型、鑑賞型、集会型に区分する、いわゆる「劇場法」論議が盛んに行われていて、芸団協案、平田オリザ案が先行している状況でした。とりわけ平田氏の案では、創造型劇場には数億円のバジェットを百分の百で支援して日本を代表する劇場を創出するという、従来の拠点補助の枠を取り払うような提案でした。その真っただ中での検討会の発足だっただけに、地域の中小都市の公立劇場・ホール関係者は無関心か、あるいは冷やかな目で見ていたというのが正直なところでした。

検討会の協議でも当初は、アメリカ型の拠点劇場や創造型劇場を中心に語られて、劇場音楽堂が現在よりも一層国民市民の生活から遊離してしまう制度になるやも知れぬという危惧を私は強く持っていました。「狭い文化振興」と昨年12月段階の前回の検討会で大下義之委員が発言したように、一部の劇場音楽堂支援、芸術支援という色合いが当初の検討会には強くありました。その空気に変化が見え始めたのは大震災の3ヶ月半後に再開された夏前の検討会でした。静岡・グランシップの館長でもある田村孝子座長の、地域の公立劇場・ホールへの目配りをすべきという穏やかながら、強い要請に、検討会自体が少しずつ路線変更をし始めていったのです。このエッセイで先般書いたように、検討会自体が、東日本大震災の被災状況の悲惨さから、劇場音楽堂が社会とどう向かい合うかという無言の圧力もあってその舳先を変えざるを得ない事態になった、とも私は考えています。大下氏の言葉を借りれば「広義の文化振興」を目指したと言えます。

1月13日に出た「まとめ」は、パブリックコメントによって修正が施されたもので、以前地域にとっては生命線だったがたった3年間でなくなったしまった、交通費、宿泊費、運搬費、日当を百分の百でまるごと補助する「舞台芸術の魅力発見事業」を想定した文言が「我が国の劇場,音楽堂の課題」に「文化芸術団体の活動拠点が東京をはじめとする大都市圏に集中しており,地方での公演は,大都市圏での公演と比較して,交通費,宿泊費,運搬費等について多くの経費を要すること等,様々な要因により,地方において多彩な文化芸術に触れる機会が相対的に少ない状況が固定化している」と織り込まれており、また私が年来から主張していた「文化の社会的包摂機能」も、「文化芸術は,人々に感動を与え,人々の創造性をはぐくみ,その表現力を高めるとともに,人々の心のつながりや相互に理解し尊重し合う土壌を提供し,人々が共に生きる絆を形成するものである。また,多様性を受け入れることができる心豊かな社会を形成し」として「劇場,音楽堂は,音楽,舞踊,演劇,伝統芸能,大衆芸能等の文化芸術がその役割を果たすための拠点であり,年齢や性別,障害の有無,個人が置かれている状況等にかかわらず,心豊かな国民生活を実現するとともに,活力ある社会を構築する機関である」と不十分ながら触れられています。総体として、地域に配慮した内容になりましたが、課題がまったくないわけではありません。

私が「不十分ながら」とエクスキューズを付けるのは、全体として「文化振興」という単一目的の視座で書かれており、文化芸術と社会との係り合いというマクロ的な視点に欠けると言わざるを得ないからです。劇場音楽堂を「活力ある社会を構築する」目的を持った「社会機関」だと規定するならば、その成果は社会に現われなければならないはずです。「文化振興」は目的ではなく、社会や地域に何らかの変化をもたらすための手段でなければならないのです。単一目的の「文化振興」では、実現されるべき世界観や社会観が透けて見えてこないのです。劇場音楽堂がその活動によって生みだす社会的効用がどのような国家や社会像の実現に寄与するのかが見えないのです。すべてが「文化振興」に集束されてしまうのは文化庁の縦割り意識のなせるところではないでしょうか。政治も行政も世界観を持っていなければならないでしょうし、その成果物としての法律は国民市民へのそのメッセージであるべきです。想定される目的が「文化振興」では、劇場音楽堂は国民市民の生活実態から遊離するばかりです。劇場音楽堂の「社会的包摂機能」には、法制化の段階でもう少し踏み込んでもらいたいと思っています。

フランスには「排除との闘いに関する1998年7月29日の基本法」という長い名称の文化に係る法律があります。(以下「反排除法」)その第5章「教育と文化による機会平等」の第140条には、「すべての人々が生涯を通じ、文化、スポーツ、休暇、娯楽の諸活動に平等に接し得ることは、国家の目標である。これらの諸活動は、市民権の行使を保障し得るのである」とあり、「公共サービスの使命として、排除と闘う国家は、文化施設に対して資金を提供する」と結んでいます。この「排除」という文言は「社会的包摂」の対義語で「社会的排除」(social exclusion)のことです。この「反排除法」によって、各省庁間の連携的補助システムを推進されて「文化の民主主義」の裏付けがなされているのです。また省庁横断的に文化予算が組まれるようになっています。ここでは明らかに文化芸術へのアクセス権がすべての国民の市民権と社会権を保障して「いのちの格差」を是正し、市民権、社会権とともに基本的人権である「文化権」をすべての国民を視野に等しく付与されることが謳われています。文化はどのような環境の下にある人にでも、生きる意志を与えるとの確信が文言から伺えます。「社会的包摂」の政治理念による社会政策と都市政策がここにはあります。文化へのアクセス権を単に「鑑賞行為」に押し込める偏った考えに立ったり、他の省庁は縁のないものと考えたり、文化政策が「命に係らない」ものとの決めつける日本とは雲泥の差異があります。文化は市民権や社会権を保障して、まぎれもなく「生きる」ことそれ自体を意味すると考えられているのです。

日本はバブル期以降、間接税重視へのシフト化による大方の国民の重税感、累進課税制度の緩和による所得の再配分機能の脆弱化、度重なる労働者派遣法の改正による非正規労働者の急増など、急速に社会の格差化が進行しています。雇用格差は所得格差を生み、さらには住宅格差、教育格差、福祉格差、医療格差、文化格差、そして終には健康格差にまで及んでいます。「グローバル化」という地球規模のアメリカナイゼーションよった日本の劣化は極めて具体的であり、社会的因果関係ははっきりとしています。「自己責任」という言葉が正義であるかのような時代は、社会関係資本を脆弱化して、コミュニティによる支え合う関係を希薄になってしまいます。教育現場や雇用現場では「生まれながらに社会的排除の対象となる子ども」の存在が現実となっています。近年「中産階級意識」が急速に失速していることも日本の劣化を物語っています。ここでは昭和の貧困(浮浪者・ホームレス・失業者)とは大きく異なる「新しい貧困」(リストラによる失業者・就職氷河期による未就業の青少年・フリーター・二―ト・ひきこもり・不登校児・単身世帯の親子・配偶者のいない女性・在留外国人等)がこの20年あまりで急速に進行していることが分かります。その階級的固定化は民主主義社会の根幹を揺るがす事態といえます。所得再配分と就業支援だけでは、日本の社会は健全化できないところに差し掛かっています。2011年4月に内閣官房に湯浅誠氏(当時内閣参与)の尽力によって「社会的包摂推進室」が設置されたのは、「派遣村」に象徴的に表れた「新しい貧困」を看過できない社会問題と政府が捉えたからでしょう。将来的な日本社会の不安となる兆しと考えて、対策が必要と認識したからではないでしょうか。

もとより文化芸術には社会制度を変革するような力はありません。これは繰り返しここで述べていることです。しかし社会制度が生んだ歪みを矯正する力は文化芸術には大いにあります。昨年2月に閣議決定された第三次基本方針にある「文化芸術は,子ども・若者や,高齢者,障害者,失業者,在留外国人等にも社会参加の機会をひらく社会的基盤となり得るものであり,昨今,そのような社会包摂の機能」とは、この社会を健全化する、活性化する、基本的人権を構成する文化芸術の潜在力を指しているのです。

これから法制化が始まります。音議連が中心となって法律の構成や文言が決められていくようです。私は、全国に2200あるとされる公立劇場・ホールが、日本社会の劣化を食い止めるリスクヘッジとなるように位置づけられる法律であってほしいと強く願っています。国民市民の生活実態に寄り添った法律であってほしいと思い続けています。公立劇場・ホールの予算は、社会的費用ではなく、まぎれもなく「社会への投資」であり、「地域への投資」であり、「国民生活の健全化に向けての投資」なのです。「芸術の殿堂ではなく、人間の家へ」です。