第106回 何もできない時には、何もしなくて良いのです ― 仙台の演劇人たちへ。
2011年3月25日
可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生
3月29日に「東北復興に向けての舞台人会議」が仙台で催されました。とは言っても、USTREAMで途切れる音声を必死に聴きとることをしただけですが、仙台の演劇人がこの時期に集まれたということは喜ばしいかぎりです。歓迎できると思いました。「どうしても、いま何かやりたい」という一人の演劇人の提案で一堂に会したそうです。阪神淡路大震災の折には、地元演劇人のリーダー格の方の稽古場が焼失したこともあり、また、隣の大阪の演劇人を含めて「無力感」が支配的な状況で、散発的にはありましたが、このような集合的な集まりは開かれなかったと記憶しています。あわせて、行政からの「歌舞音曲の類の自粛」が言われたこともあり、どことなく鬱々とした空気の中でそれぞれが「何をすべきか」を模索している、と言った雰囲気でした。ですから、仙台の演劇人の素早い動きには共感を覚えます。
私が、「子どもたちの心のケア」と「被災者のコミュニティ形成」のために「神戸シアターワークス」を始めなければと動き始めたのは、震災から2ヶ月半を過ぎた95年の4月あたりからです。そのオルグ活動の過程で避難所や仮設住宅の生活支援ボランティアの人たちから繰り返し言われたのは、こういう状況なので「笑えるものをやってください」、「楽しいものを見せてください」ということばかりでした。ボランティアの人たちは私たちがやろうとしていることを勘違いしている、という違和感は活動期間ずっと拭えないでいました。
仙台の演劇人の会議の中で「芝居屋なので芝居をやるしかできない」という発言がありましたが、私は演劇人をコミュニケーションの専門家であると当時から思い続けています。あるいは「専門家」でなければならない、とさえ考えています。
したがって、神戸シアターワークスの活動の中心は、子どもたちの心の中に抑え込まれている「声」に耳を傾けることであり、重い現実を負い込みながら孤立しがちな中高年者の支え合うコミュニティづくりでした。演劇公演は、活動期間およそ5年間で、正式結成以前の96年2月に地下鉄湊川駅近くの仮設住宅荒田みどり住宅内のふれあいセンターで大阪の劇団楽市楽座のうでまくり洗吉さんにやっていただいた『化粧一幕』と(彼女はその5ヵ月後の朝に急逝しました。その上演後の言葉が残っています。拙著『芸術文化行政と地域社会』に採録してあります)、結成後にデンマーク・ボート・シアターの『フルーエン(蝿)』を地下鉄学園都市駅近くの日産自動車のディーラーのショールームで、西神の仮設住宅のご家族を招待した上演の2回だけでした。活動の中心は、あくまでもコミュニケーションに立脚したプロジェクトでした。
たとえば、神戸市灘区では、子どもたちが震災時の記憶を共有して、自分だけがストレス障害を持っているのではないと被災経験を、心的外傷後ストレスを軽減化するデブリーフィング(報告・吐き出し)のために『焼けない野原をさがして』という動物たちの旅の物語を子どもたちだけで紡ぐワークショップをしました。自分たちの想像力と創造力で自分を癒すというワークショップです。ナビゲーターは子どもたちが行き詰まったときにサポートするだけです。新しい子が入ってきた時にどのように初めから参加していた子とどのように溶け込ませるか、とシアターワークス全員で頭を悩ましましたが、彼らは新しく参加した子を旅の途中で出会った動物として一緒に旅をつむぐことで、自分たちで解決方法を見つけてくれました。
「いま、出来ることをやりたい」、「何かやらなければ」という仙台の演劇人の気持ちは充分に理解しますが、被災者は、1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月、1年という風に心の状態が大きく変化していきます。いまは「生活支援ボランティア」の時期です。あるいは被災体験に耳をそばだてる「傾聴ボランティア」が少しずつですがニーズが出てくる時期です。ただただ被災の体験や現在の気持ちを受け容れるだけの、しかし被災者が心的外傷後ストレス障害(PTSD)に陥らないために重要なミッションです。「死」や「怒り」や「嘆き」や「後悔」についての生々しい話を聞くことになります。これには向き不向きがありますし、相当、精神的にタフな仕事になります。専門の臨床心理士と同行するのが一番安全です。事後のデブリーフィングをきちんとやらないと、傾聴をした当人が二次被害の急性ストレス障害になってしまいます。神戸シアターワークスも、事後のデブリーフィングには、甲南大学の臨床心理の羽下教授のチームに付き合ってもらいました。
私が神戸で体験したなかには、上の女の子は無傷で助けられたのですが下の子が圧死してしまったお母さんが、お姉ちゃんを目の前にして「この子は図々しいから生き残って」と言っているのを聞きました。これほど「むごい」話を否定もせず丸ごと受け入れるのは強いストレスを感じることです。また、自治会のトップで被災者を牽引している居酒屋のおやじが、と言っても私より七つ八つ若いのですが、震災当時の話をしていて、「頑張りすぎですよ」と私が相槌を打ったら突然「オイオイ」と号泣し始めたことがありました。被災した人たちは、みんな胸いっぱい涙がたまっているのです。喉元まで涙をためているのです。それを流させてあげるのも、傾聴ボランティアやコミュニケーション能力や技術で被災者のケアをする演劇人の仕事のひとつとも言えます。被災者が涙を流せれば、それは自己回復の反応であり、自己回復力が働くプロセスに入ったことを意味します。涙は心の冷却水なのです。PTSDになることを回避することにつながるのです。テレビで南相馬市の高橋医師が、最近は通ってくる患者さんがみんな無表情で無口になってきた、と語っていましたが、これはSOSです。誰かに心に鬱積した言葉を吐き出したい、と感じ始めているのです。
しかし、被災者でもある仙台の演劇人は、いま出来ることをする、というスタンスで良いのです。出来なければ、何もやらなくて良いのです。むしろ、やらないことも勇気のいることなのです。「ドライバーとしてNHKの取材で沿岸部に行ってきた」という報告が舞台人会議の冒頭にありましたが、それで充分すぎるくらいなのです。いきなり演劇を「持ち込もう」とか「やろう」とかは絶対に考えないことです。演劇人も被災者なのですから。「頑張らないこと」、「無理をしないこと」が肝要です。石川裕人氏が「日赤の向けられている義援金を仙台演劇(仮称)に」と書いていましたが、いまは生活支援と医療支援が最優先です。お金がなければ手弁当で、あるいは神戸シアターワークスの時のように東京の企業にファンドレイジングすることが必要です。なぜ東京かと言えば、東京には本社機能が集積していますから、意志決定が速やかだからです。被災者の心の支援は時間との勝負なのです。私が「劇都仙台」に関わっていた頃には皆無に近かったプロデューサーが、のちに宮城大学の教師をする頃には驚くほど増えていたのですから、彼らがファンドレイジングの先頭に立てばよいのです。
演劇や音楽は、一般的には前述したボランティアのように「笑えるもの」、「楽しいもの」と考えがちですが、むしろ共感して泣けるもの、被災者の心に寄り添えるものが良いのです。震災後3ヶ月目くらいから、被災の重い現実がのしかかってきます。いまはテンションが高く、むしろ元気に振る舞えることがあります。それが時間の経つにつれて、抑鬱的な状態や攻撃的になったりする精神状態になります。激しく心を傷つけられたのですから、痛んだ心を癒すことが緊急的に求められます。そこからが、心に働きかけるアートの出番です。このときこそ、演劇や音楽の出番です。可児市文化創造センターalaも、その時期を見計らってから出動する予定で事業設計を始めています。
演劇人は演劇をやらなければいけない、あるいはすべきである、いますべきである、という強迫観念は直ちに捨ててください。演劇人はコミュニケーションのスペシャリストなのです。心に働きかけることのできる技術を持っている専門家なのです。非常にタフな仕事になりますが、今回の震災体験や他者の心に関わることが「機会」となって、仙台の演劇はきっと新しい価値を創り出します。新しい地平に踏み込めるはずです。うでまくり洗吉さんのように、演劇をする意味を、そして自分を捉え直す「機会」となるのではないでしょうか(ウェブサイト「神戸シアターワークス」に洗吉さんの絶筆があります)。そのためにも、何もできない時には、何もしなくて良いのです。いまは、高く飛ぶための膝だめの時ではないでしょうか。