第96回 「成果」は外の世界に現われる/劇場・音楽堂の価値。

2010年11月5日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

「劇場法」(仮称・以下略)の論議が一段落したようにみえます。一巡した、という感じでしょうか。ただ、私には、どうしても引っかかるところがあります。提案者にはそういう気分はないのでしようが、多くの劇場・音楽堂関係者と話してみると、彼らの一部には「劇場法」が、劇場・音楽堂の救済法のように受け取られていると感じるのです。劇場・音楽堂の社会的責務を明確に意識することなしに、少しでも補助金のとれる仕組みとして「劇場法」が考えられている様子なのです。私には、それが奇異に感じられます。

むろん、「劇場法」の成立によって、劇場・音楽堂は何らかの経済的利得にあずかれるでしょう。しかし、同時に、いままで充分に果たしてこなかった社会的使命への責務に対する猛省をしなければならない、と思うのです。劇場・音楽堂に「専門家」を配置して、従来からのハコモノ公共ホールを創造的な施設にするインセンティブとして「劇場法」が考えられ始めたことは理解していますが、その前にしなければならないことがあります。国民の大半の生活から劇場・音楽堂が遊離しているのは「誰の」、「どのような経営意識」によってなのか、という点です。その振り返りなしに「劇場法」を欲しがるのは、子供が駄々をこねて玩具を欲しがるようなもの、としか私には映りません。

「多くの国民が演劇や音楽を楽しむようになる」社会づくりが「劇場法」の目的のように言う人がいます。しかし、「劇場法」の構想には、そのようなことが一言も語られていません。「専門家」を配置して、創造的な劇場・音楽堂をつくるとしか構想の文言には書かれていません。理念の柱は「専門家」の配置であり、創造的な造営物の設置です。「専門家」を配置すれば、より良い舞台芸術が生み出され、国民が演劇や音楽を好きになるとでもいうのでしょうか。楽観的に過ぎると私は思います。舞台芸術は選択財です。国民個々の嗜好を法律で変えることはできません。縛ることも、むろんできません。創造的な劇場・音楽堂を造れば国民が舞台芸術に親しむようになる、というのは飛躍があり過ぎます。暴論の類です。自分に都合のよいように考える「牽強付会」の類としか私には映りません。仕組みを変えれば、国民の嗜好まで変えられるというのは、全体主義者の思考です。それに私は、国民が皆、舞台芸術が好きな国というのは気持ちが悪いと思います。

また、多くの「専門家」が全国各地に配置されることによって「演劇人や音楽家の職業化」が大きく進むむという人もいます。つまり「食べられる」ということです。「食べられない」より「食べられる」という方がましだとは思いますが、そのことによって、舞台芸術の世界が劇的に変化するとも、国民が舞台芸術に親しむようになるとも、私には到底思えません。当然ですが、そうなったらそれで、相当の混乱は覚悟しなければなりません。芸術監督の多くは、人材集積のある東京から全国各地に配置されるのでしょうが、私がもっとも危惧するのは、当人の芸術的野心を地域の劇場・音楽堂で果たそうという動きです。住民とはまったく関係のない当該芸術監督の芸術的野心のために、地域が翻弄されるのではないかということです。「舞台芸術に親しむ」どころか、住民とはまったく無縁の芸術的野心の発露によって、劇場・音楽堂との乖離が起きるのではないかと考えます。その先に、「地域の東京化」が起きるだろうことは想像に難くありません。そのとき、取り残される住民はどうなるのでしょうか。地域と折り合いの付けられる芸術家がそう多くはない。いままでの先例で成功している事例はあるでしょうか。また、劇場経営の「専門家」がどれほど日本にいるというのでしょうか。

「アーツマネジメント・ブーム」が残したものは、芸術や劇場・音楽堂にはマネジメントが必要、という観念であり、それが実際的なスキルとして理論が未形成ですし、定着はしていないのです。「ブーム」は「マネジメントは必要」という意識だけを残したと言えます。つまり、地域に必要とされる人材は、そう多くはないと断言できます。それでも公共ホール(劇場・音楽堂)のトップ・マネジメントや芸術監督が「劇場法」を「ともかく簡単な条文でも早く作ってほしい」という発言になるのは、予算削減への危機感からだと想像できます。国からのお墨付きで存在を盤石にしたい、のです。しかし、劇場・音楽堂が向き合わなければならないのは国ではなく、そこに住んでいる人々なのではないでしょうか。「予算」で活動していることで、その供給源に顔を向けたい気持ちは分からないわけではありませんが、私たちは社会に向けてサービスを供給し、そのことに責任をもっている機関なのです。

つまり私には、現在論議されている「劇場法」が、アーチストや劇場・音楽堂の救済法のように扱われていると思えてならないのです。むろん、そういう一面はあるでしょう。しかし、それは結果であって、立法の使命は、最終受益者たる国民にとって劇場・音楽堂がどのような社会的利得を供給できる施設として存在しうるかどうか、なのではないでしょうか。劇場・音楽堂の社会的価値財化を目指す筋道として、「専門家の配置」や「創造型施設」が工程表に表記されるというのが、本来の姿ではないでしょうか。手段を目的化してしまっている感が拭えないのです。「劇場法」はあくまでも手段であり、目的は最終受益者たる国民の生活にあるのではないでしょうか。国民の幸せであり、心を健全に育む生活ではないでしょうか。そういう社会にあってこそ、劇場・音楽堂は健全に使命を果たせるのです。「劇場法」の制定には賛成ですが、このところを見誤っては国民的な合意を得られないのではないかと危惧します。アーチストや劇場・音楽堂の救済法では、舞台芸術はいま以上に、国民から遊離した、一部の愛好者だけのものとなってしまうことでしょう。時機が時機だけに、強い反発さえ生むことでしょう。

国民から遊離したものが、社会的に価値のあるものとはならないのは自明です。なぜならば、劇場・音楽堂の顧客たる国民の「受取価値」それ自体が、劇場・音楽堂の社会的価値となるからです。事業体や組織の「成果」は外部に現われます。劇場・音楽堂にとって外部とは、第一にまさしく国民にほかならないのは言うまでもありません。もしそれが国民でなければ、法律の体をなしません。国民が最終受益者となることは、優れた舞台を創造することをも含めて、社会に貢献することを意味します。さらに、その「成果」が従業員満足という「誇り」を生んで、組織活性化をもたらすのです。事業体や組織は、社会にいかに貢献するかで存在価値が決まるのです。「劇場法」の対象となっている劇場・音楽堂も、外部の世界にいかに貢献するかで、その社会的な存在理由が決まるのです。

むろんのこと、舞台芸術の鑑賞者はどの国においても相対的には少数者です。誰もが舞台芸術を必需財としている国などあろうはずもありません。しかし、たとえば英国においては、地域の劇場・音楽堂は、地域社会とコミットしてあらゆる生活課題の解決のために、その社会的機能を果たすことを責務としています。その担当部署を設置することが、英国芸術評議会から国営宝くじの剰余金の補助を受ける要件となっています。地域の劇場や音楽堂、美術館、博物館は、ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)という政治理念を文化面で果たすことを地域社会とコミットしているのです。所得格差、階級格差、教育格差、民族格差などの、あらゆる社会的背景による差別を地域社会で創造的に解決するために、劇場・音楽堂は持てる社会的機能を全面的に展開して、その効用を最大化することが求められています。つまり、「機会の平等」を地域住民に保障する責務がある、ということなのです。

いま日本で検討・協議されている「劇場法」でも、この「機会の平等」が、法の精神の要とならなければなりません。「成果」は外部にあり、社会にある。このことを忘れてはならないと思います。英国では、それにコミットすることで、結果的に文化支援が手厚くなされているのです。「社会的責任」を果たすことで、それを事業拡大の機会としているのです。芸術文化は、社会の「孤児」になってはいけません。社会から超然として成立する芸術文化など、在り様はずもないのですから。