第92回 エリック・ドルフィーのように。

2010年8月26日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

山下洋輔トリオを「体感」するために、新宿の紀伊国屋書店の裏手にあったピットインに通っていました。虫プロダクションに在籍していた頃から、演劇評論家として仕事をしていた20代の半ばあたりまでのことです。山下洋輔(ピアノ)、森山威男(ドラムス)、中村誠一(サックス)のオリジナル山下洋輔トリオは、演劇はどうあるべきかを毎日考えていた私にとって、衝撃であったし、羨望でもありました。

大学近くのジャズ喫茶には、毎日のように足を運んで、一杯のコーヒーで5、6時間は本を読んだり、舞台のプランを考えたり、極々たまには教科書を開いていました。私たち学生は「モダン・ジャズ」を「ダンモ」と呼んで粋がっていました。早稲田のそばには二軒のジャズ喫茶がありました。戸塚一丁目のバス停近くの「MOZZ」と戸塚球場の隣でグランド坂下にあった「フォービート」です。私は「フォービート」の隠れ家的な雰囲気が好きでした。ジョン・コルトレーンやチャーリー・ミンガス、マイルス・デビィス、それにエリック・ドルフィーを好んで聴いていました。大型スピーカーのそばの席に陣取り、大音響の中で本を読み、プランを考えていました。大音響の中にいると、とても集中できました。大学近くから高田馬場駅近くまで連なる古本屋で、次のバイト代が入るまでおあずけを食らっていた本を手に入れると、その大音量の中で、次の本を購入できるまで何回も読み返していました。余白が赤いボールペンで書き込みだらけになるほどでした。

決められた台詞や劇場という「制約」に縛られている演劇をなんとか解き放ちたいと思い、即興劇や野外劇の蠱惑的な手法になびきつつあった時代でした。いま考えると、何とも若気の至りという感ですが、演劇改革を真剣に考えていました。私の大学時代の演劇仲間は、マンションの一室に観客を集めて手首を切って血を流して見せる、というようなハプニング芸術に走る者もいました。そんな漂流状態のときに山下洋輔トリオと出会ったのです。

フリージャズというものだったことは後で知ったのですが、「音のうねり」、「音質」、「リズム」でピアノとドラムスとサックスが非常に自由に、即興的に「会話」している、というよりも、私にとっては何かボクシングの試合を「体験」するような気分でした。あの狭い新宿ピットインの椅子で、嫉妬や羨望の思いを抱えて前のめりに彼らの激しいやりとりに立ち合っていました。あんな演劇が出来たら凄いだろうな、といつも帰り道で考えました。帰宅してからは、三浦つとむ氏の『言語と認識の理論』を読みふけるというのが、その頃の私の生活でした。読み耽りながらも、いつも洋輔トリオの幻影を追いかけていました。「言葉」から自由になれば、洋輔トリオのような演劇に辿りつけるのではないか、と勝手な仮説を立てていたのです。若さというのは、「無謀」なものです。

アーラに来てから、あの森山威男氏が可児市の住民で、『森山威男JAZZ NIGHT』というコンサートを劇場のオープン前から続けていることを知りました。トリオのはじめてのLPレコード『DANCING 古事記』を自費制作して、私はそのプロモーションのための公演のプロデューサーをしていました。もちろんボランティアです。というより、持ち出しでした。京都大学の西部講堂、円山音楽堂、新潟の日本海を望む相撲場などでコンサートを開きました。信じられないでしょうが、あのはっぴーえんどが3万円ぽっきりで前座を務めました。楽器を運ぶ銀トラックに乗って来てくれました。他には、DEW、ブルース・クリエーション、田舎五郎(中川五郎)と魚などが山下洋輔トリオの前で演奏してくれました。円山音楽堂のときに洋輔さんがピアノのペダルを踏みぬいて、管理人が怒って電源を切ってしまい、真っ暗な中でコンサートが終わった思い出も、本当に昨日のことのように一部始終を鮮やかに思い出せます。困ったけれど、何か「日常」と対峙している胸躍る気持ちがありました。森山さんとは可児で本当に懐かしく再会しました。

もうすぐ『森山威男JAZZ NIGHT』の季節になります。北海道から沖縄まで、遠方からこの日を楽しみにしてくださっているお客さまが駆けつけてくれます。毎年9月の第3土曜日と決まっているので、大分前から休みを取っていらっしゃるのだろうと思います。フリージャズのコンサートであり、しかも小さな町の公共劇場で行われる催し物に、毎年1000人近いお客様が全国からいらっしゃること自体が「奇跡」に近いと思っています。アーラでは、今年3月に公演した大規模市民参加型事業『オーケストラで踊ろう!』の150人のコンテンポラリー・ダンスと並ぶ、非常に「尖がった」企画です。賛否両論が沸き立つようなオーネット・コールマンの演奏のように「尖がった」企画、と言えばジャズファンならハハーンと分かってもらえるでしょう。この『森山威男JAZZ NIGHT』という企画が可児で成立していること自体が「奇跡」と感じています。

この手の企画ばかりを並べれば、東京目線の学者や評論家はアーラを「先駆的」であると評価するでしょう。刮目に値すると評価されるでしょう。各種の賞や補助金の審査員の注目を浴びることが出来るでしょう。しかし、アーラの最終受益者は「可児市民」です。市民の心の中に「アーラ」をしっかりと刻むことが私たちの仕事です。ですから、「尖がった」企画ばかりを並べるわけにはいきません。市民目線の半歩先を行くことを心に銘じています。ジャズファンなら、エリック・ドルフィーくらいの線をいつも狙っている、と言えば分かってもらえるでしょうか。「ちょっと前衛的なのだが、聴いていて心地よい」という感覚がアーラの企画のラインです。地域と共生して、しかも東京目線にも訴えるというのは、本当に難しい仕事です。