第71回
2010年1月13日
新しい年に想うこと。
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
暮れの29日から元旦まで、年に一度の贅沢で、恒例の箱根・強羅温泉に行ってきました。冷たい箱根山の空気に触れながら、ゆっくりと露天風呂につかり、62年の来し方を振り返り、これから何年かは続くだろうアーラでの仕事の行く末を考えていました。毎年出かける仙石原のポーラ美術館には30日に行きました。企画展は『ボナールの庭、マティスの室内』でした。正直、あまり面白いものではありませんでした。「ハズレ」です。それよりも常設展の方が、私には楽しいものでした。ゴッホの『アザミの花』や、ピカソの『海辺の母子像』、『花束を持つピエロに扮したパウロ』、スーラの『グランカンの干潮』は、毎年この時季に堪能する作品です。いつ見ても、描かれた対象への眼差しと画家の心のありように気持ちが動きます。
企画展には不満を持ちましたが、何といってもポーラ美術館は建物が素晴らしい、と訪れるたびに思います。山肌に沿って三層に設えられたガラス張りの美術館は、この時季、冬の乏しい陽光に満たされています。ガラス越しの冬の山には杉林の緑はなく枯れ木ばかりですが、それらを冬の陽光がうっすらとおおって薄桃色の輝きをそえています。冬の、嘘のない風景にむしろあたたかさを感じます。アーラに似た、人間に対する寛容さを感じさせる美術館です。
私は露天風呂が大好きです。ぬくぬくと浸かりながら、いろいろと考え事をするのが楽しみです。ほとんど妄想に近いのですが、ゆくゆくはアーラでこんなことをしてみたいとか、お客さまの立場にたてば、こんなことをすれば喜んでいただけるだろうな、とか思いを巡らします。
それにしても、私の来し方を振り返ると、どういう運命の糸に導かれて現在アーラの館長をしているのか、自分でも不思議でなりません。あっちへヨロヨロ、こっちへヨタヨタと、蛇行を重ねてアーラに辿り着いた、というのが実感です。21歳で演劇評論家として、当時あった演劇界随一の「新劇」という雑誌に毎月原稿用紙20枚の連載をはじめたのですが、一方では、仲間と劇団をつくって六本木のアンダーグランドシアター自由劇場を借りて公演活動もしていました。作・演出、それに止めれば良いのに役者もやっていました。連載は三年間続きましたから、20代半ば前には「顔(メン)」は割れてはいませんでしたが、当然「衛紀生」という名前は知られるようになっていました。はじめはペンネームの「衛紀生」を「まもり・のりお」と呼ばせようとしたのですが、そのうち「えい」と呼ばれ、名前も「きせい」と呼ばれるようになりました。流れに身をゆだねる方だったので、自然と「えい・きせい」ということになりました。
このペンネームは、早稲田大学を中退して手塚治虫先生のやっていた虫プロダクション第三スタジオ(練馬区江古田)の企画演出課にいたときに「早稲田文学」からの原稿依頼があり、世阿弥のことを芸の原点から転向することで能を武士のたしなみにまで高めたことを書いた『狂花の美学』を書いたときに付けたものです。友人で、当時売れない作家で編集のアルバイトをしていた立松和平から「新人特集」に書かないかと依頼があり、本名では物書きらしい魅力がないからと編集長の有馬頼義先生に言われて付けたペンネームです。当時の虫プロダクション企画演出課は出来たばかりのセクションで、私を含めて5人の課員は、意気軒昂ではありましたが、前歴の怪しい梁山泊の住人みたいな奴ばかりでした。奴らが寄ってたかって付けた名前ですから、有馬先生のおっしゃった物書きらしい「あやしいペンネーム」になったのです。しかも、二、三年で氏名ともに「音読み」されるようになったのですから、これ以上「あやしい」ことはありません。
虫プロダクションは一年で辞めました。酒の席で同僚の女性に酷い言葉でセクハラをする副所長をスナックの椅子で殴ったのがきっかけでした。アニメーションの世界で生きていこうとは思っていなかっただけに、私としては精一杯の正義感を発揮したのですが、やることが滅茶苦茶です。物書き一本で生きていこうと退職しました。23歳の時です。とは言っても、原稿用紙一枚500円の時代ですから、連載20枚書いても1万円にしかなりません。六畳一間のアパートの家賃が6千円の頃ですから、演劇評論家としての名前は売れていましたが当然アルバイトに明け暮れます。六本木のナイトクラブ「酔いどれ伯爵」のマネージャーから、仲間とポンコツのトラックを二台買ってのちり紙交換、旭川での鉄工所の工員と、やった仕事を書きはじめたら夜を徹しても尽きないくらいです。
27歳の時に父が倒れました。次の年に母が倒れ、親不孝者の私がなんと寝たきりの両親を抱えることになったのです。父は病院に入っていましたが、母は我が家で寝たきりになっていました。物書き仕事は一切できなくなりました。兄姉はみんな結婚して家を出ていたので私が面倒を見る羽目になりました。「えらいことになったな」とは思いましたが、これで買っておいて「積読(つんどく)」になっていた本を読める、と思ったのを憶えています。親の貯金と私の乏しい貯えを切り崩して、三時間おきに起きて下の世話をし、昼間は病院の父を見舞い、あとは本を読んでいるという生活を丸三年間やりました。ですから、私の仕事には足かけ四年のブランクがあります。
父が亡くなり、母が追うように翌年亡くなって、31歳の歳にぽつんと独りになりましたが、丸三年間のブランクで、もう物書きに戻ることは不可能と思っていました。トラックの車体だけを遠隔地に移動させる陸送の運転手になろうと思っていました。それならたった一人での仕事ですし、人間関係に煩わされることもないと考えたからです。いまから考えると、演劇の仕事を断念することが堪えていたのかも知れません。演劇からなるべく遠い、前歴を探られる機会のない仕事、と思っていたのだろうと思います。
三月に母の百カ日を終えて、さあ陸送の仕事探しだと気持ちを入れ替えている時に、かつて私の所に原稿を取りに来ていた編集者から電話が入りました。当時は、FAXもメールもなかった時代ですから、編集者が原稿を自宅近くまで取りに来ていたのです。だから、書き手と編集者の関係には深いきずながありました。「いまから4月号には無理だけれど、10月号から連載を始めないか」という有難い申し出でした。まったく一銭の貯えもなくなっていましたが、半年の生活はなんとかしのいで、そのあいだに存分の充電をして良い原稿を書くことが彼への恩返しになると考えました。それからが私の物書きとしての「第二幕」でした。念願の歌舞伎の批評もできるようになり、その精度を高めるために、長唄三味線をやりました。黒御簾音楽の人間国宝である杵屋栄左衛門師の奥様杵屋栄禧師のところに週二回通い、歌舞伎音楽を中心に稽古をつけていただきました。それからは演劇の評論、テレビの演劇キャスター、ラジオ深夜便での月一のレギュラー出演など順風満帆の評論家生活をしましたが、40歳前後の頃に東京の演劇界におもしろい作品が少なくなり、不満になって地域に出ることにしたのです。地域から東京を変える、と大仰な目標を立てて、たった一人の反乱を企てたのです。そして、経営学や公共政策学や行動経済学などを独学で勉強して、その後しばらくして大学で教えることになり、そしてアーラに来ることになったわけです。
とういうことで、若いころから、一瀉千里に公共文化施設の経営に突っ走ったわけではないのです。偶然が重なってアーラに辿り着いたと言えます。あっちにヨロヨロ、こっちにヨタヨタ、あたりをウロウロの人生だったと、いま思います。アーラにあと何年いるか分かりませんが、まだまだアーラの可能性のすべては引き出せてはいないと思っています。体力的な限界なのか、能力的な限界なのか、いずれはその壁に突き当たって身を引く決意をする時がくるでしょう。しかし、その限界を自分が感じるまでは、アーラをより高みにもって行こう、可児市を全国に誇れるまちにしようと、新年にあたって思いました。ヨロヨロとした分だけ、少しは人間に対しては寛容さを持っていますし、分かっているつもりです。「芸術の殿堂」より「人間の家」にする眼差しだけは忘れないように完走したいと、温泉につかりながら考えていました。