第58回 疾風に勁草を知る―サバイバルの時代に生き残るために。
2009年10月10日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
表題の「疾風に勁草を知る」は『後漢書』にある片言隻句です。猛烈に激しい風が吹き荒れて多くの草は倒れてしまうが、その中でも生き残る強い草がある、というような意味です。
公共文化施設はいままさに「疾風の時代」に入っています。猛烈なアゲインストです。財団法人地域創造が2000年に実施した調査によれば、1999年段階で全国には2465館の公共劇場・ホールがあるそうです。10年後の現在では、2500超になっていると思います。それほど広くはない日本の国土にこの数の劇場・ホールはとても尋常とは思えません。バブル期に計画され、90年代に「ホール建設ラッシュ」と言われた状況は、比較的潤沢だった税収と大幅に自己負担分の軽減される地域総合整備債などの起債を背景に、公共事業として多くの自治体が劇場・ホール建設を位置づけていたと言えます。つまり、建設すること自体を目的化してしまって、当該地域社会のニーズの積み上げや、それによって明確な事業組み立てとミッションを持ったものではなかったのです。ともかく「ハコ」を造る、という性格のものでした。
それだけに時代が変化して、経済的に逼迫する今日のような状況になると、それらは無駄の象徴のように見られるようになります。一度建ててしまったハコモノは、壊さないかぎり毎年維持管理の経費が必要となります。そのような劇場・ホールは、私のような立場の人間から見ても「ムダ」としか思えません。建設時の一時的な地元経済効果のために、その後、毎年維持管理費という「ツケ」を払い続けなければならないからです。「行政の失敗」です。そういう公共文化施設が全国に2000以上はあると思います。指定管理者制度の対象にして指定管理料を払うのももったいない施設です。そんな施設のために維持管理予算を計上するくらいなら、いっそ閉めきって朽ち果てるのを待つ方がましです。その予算は福祉や教育にまわすべきだと私は思います。この類の施設は、表題の「疾風に勁草を知る」の対象にもなりません。「ムダ」は一刻も早く削減すべきと考えます。
私がここで「疾風」に耐える潜在的な可能性をもつ対象と考えている劇場・ホールは、ある程度の事業予算を持ち、年間十数本程度以上の事業を実施している施設のことです。あるいは、何らかの創造的な事業に取り組む意欲のある劇場・ホールのことです。そのような施設にいま必要とされているのは、下へ下へとしっかり根を張るための仕組みです。つまりマネジメントとマーケティングの工夫です。価値観の多様化した時代に対応する仕組みの設計です。
私は年に一度、数週間、アーラで製作した舞台の全国営業に出ます。その折に担当者から良く聞くのが「演劇はお客さんがいなくてね」という言葉です。これにはいささか呆れてしまいます。演劇だけでなく、クラシックだって、ポップスだって、あらかじめお客さまが存在していることなどない、と私は断言できます。あらかじめ一定のお客さまが地域に存在していて、それも一回限りの公演にピンポイントで食いつくのをただただ待つというウエイティング・モードでは、地域の公共文化施設は成り立ちようもありません。それは「経営」とは言えません。お客さまは創るものです。「創客」です。その「待ち」の運営程度のことなら、誰にでもできることとは思いませんか。したがって、そのような意識で運営されている施設は、有名人やタレントに走ります。瞬間最大風速の観客数を求めてしまうのです。それでも良いのですが、そこに集まったお客さまは有名人やタレントを「見物」にいらっしゃるのであって、将来的に音楽や演劇のファンになる人々ではありません。「創客」の糸口さえそこにはないと言い切れます。私達がいまやらなければならないのはブランディングです。当該の劇場・ホールへの社会的信頼を獲得して、いわば「ファン」を創りだす仕組みづくりです。アーツマーケティングというよりも、ソーシャル・マーケティングに近い仕組みをつくり、市民のライフスタイルに劇場・ホールを位置づけて、信頼の関係づくりを始めることです。
逆風のサバイバルの時代に生き残るためには、お客さまの受取価値を最大化する仕組みを創出しなければなりません。これは根気のいる仕事になります。たとえばアーラでは、いま「マキノノゾミ」という劇作家と顧客との良好な関係づくりをしようとしています。今年7月に彼の作品である俳優座劇場プロデュース『東京原子核クラブ』を上演したのですが、客席稼働率は50%強という淋しいものでした。当然です、「マキノノゾミ」は可児周辺ではまったくの無名なのです。しかし、アンケートの満足度が、閑散とした客席では考えられないほど高かったのです。それは終演後にお見送りするお客さまの表情からもはっきり読み取れました。劇場での顧客満足度は客席稼働率の上下によって乗数的に変化します。私はそういう作家「マキノノゾミ」への非常に高いお客さまの反応に着目しました。そして、むこう3ヶ年間程度は彼の作品を上演し続けよう、と決めました。むろん、上演団体は違っています。来年度は青年座の『赤シャツ』と文学座の『殿様と私』、再来年度は、旅に出ることが決まれば加藤健一事務所の『高き彼物』を、考えています。目的のプライオリティは、可児では無名の「マキノノゾミ」を有名にするということではありません。むろん「マキノノゾミ」ファンを創ることになりますが、その先には、アーラのファンを創ることを企図しています。
人間は自分の知らなかったことを感動と共感を持って新たに「発見」すると、驚きの次に来るのは「発見」した自分への賞賛を込めた対象への強い支持です。自分自身への賞誉があるだけ、その支持は熱いものになります。私が企図しているのは「アーラなら素晴らしい体験ができる」というブランディングです。「マキノノゾミ」の作品が文句なく素晴らしく、あわせて可児周辺では知られていないからこそ可能となる最速のブランディングです。「最速の」でも最低3ヶ年はかかります。根気のいる仕事ですが、ブランディングに近道はありません。「発見」と「驚き」には、自分だけのものにしておきたいという気分が伴うので「倍々ゲーム」で客席稼働率が高まると楽観的には考えていませんが、3ヶ年という時間をかければ、満席で「まきののぞみ」作品を迎えることができるようになると考えています。
さらに、私達が「勁草」となるためにやらなければならないことのもう一つは、可児で言えば、アーラに来ない市民にも「アーラはこの町には必要だ」と思ってもらえるマーケティングです。これが、いま必要な種々なマーケティング手法のなかで、市民のライフスタイルに直結するソーシャル・マーケティングにもっとも近いものと言えます。日本の公共文化施設は、およそすべてが税金によって成立しています。ドイツやフランスほどの依存度ではないにしても、事業収入と個人や団体の寄付によるアメリカや、事業収入と芸術評議会からの助成や自治体からの補助による英国とは、明らかに違っています。納税者主権が貫徹されている、あるいは貫徹されなければならないのが、日本の公共文化施設の特徴のひとつです。そのために生じる制約は当然あります。また、地域に立地する文化施設は、受益者負担たる入場料金に当該地域の「慣習価格」というバイアスを掛けることが求められます。したがって、満席になっても経費のすべてが賄えないケースさえあります。通常、民間の芸術団体は、60%?65%の客席稼働率ですべての経費を賄えるようにして、それより率が上がれば利潤となるように価格設定をします。これが価格政策のスタンダードです。ところが、東京では10000円に設定している舞台でも、地域では6000円が限度ということは日常茶飯事にあります。この4000円の差額が地域の公共文化施設の制約であり、この差額に「公共的な意味付け」しなければならないわけで、ここでも「納税者主権」が貫かれます。不足する差額、あるいは経費の不足分は、地域の福祉社会化(「文化化」でないところに注意して下さい)への投資であるということになります。投資である以上は納税者たるすべての市民を視野に入れたサービスや施設や事業の存在証明が必要となります。「芸術には公共性がある」とか「芸術は崇高な行為である」などという言辞を振り回しても、納税者主権の公共文化施設の存在証明にはなりません。独りよがりな言い訳だからです。
誰もが生きやすい地域社会をつくるための投資的経費として、公共文化施設に関わる予算に公共性を持たせるには、納税者主権を貫かなければなりません。それには劇場・ホールで市民が訪れるのを待っているだけではいけません。私はそういう経営姿勢を「蜘蛛の巣型経営」と呼んでいます。蜘蛛の巣をなるべく大きく張って、客が掛かるのをひたすら待っている経営姿勢です。経営努力といえば蜘蛛の巣をなるべく大きく張ることだけです。つまり、広報宣伝やパブリシティに大きな予算を費やすことです。私は、とりわけ地域の劇場・ホールは「蜜蜂型経営」でなければならないと思っています。劇場・ホールは装置型産業です。装置=劇場・ホールは建設されている場所から移動することはむろん出来ず、その制約下にあります。お客さまには、入場料という経済的コストのほかに、「出かけてくる」という時間コストと労力コストを支払ってもらわなければならないのです。「蜜蜂型経営」とは、装置型産業がその制約を克服する経営プログラムを持つことです。飛んで行って、そこに実りをもたらす代わりに蜜をもらう、というWIN-WINの経営姿勢です。納税者主権である以上、公共文化施設は、地域の社会的ニーズに対応したプログラムを用意することが必須となります。教育機関や福祉施設、医療機関へのアウトリーチ(蜜蜂型)はむろんのことですが、それはただの出張演奏会であってはなりません。少なくとも出かけた先やその周辺環境の問題解決を企図するミッションを持つものでなければ「公共的な意味付け」になりません。私たち公共文化施設が提供するのは地域のニーズに対応したソリューションなのです。つまり、公共文化施設は「公共」であることによって「社会機関」としての存在証明が必要となるのです。アーラでは可児市全体を視野に入れて、今年度は年間180のアウトリーチ、ワークショップ、クリニック、ホームカミングを「アーラまち元気プロジェクト」として提供しています。あわせて、年間約75000人の市民が、アーラのフリースペースでDVDを楽しんだり、パソコンを操作したり、コミュニティの会合をしたり、本をゆっくりと読んだり、教科書を開いて試験勉強をしたり、お弁当をつくってピクニック気分でランチをしたりと、市民個々の生活のアクセントとなる「場」を提供しています。これは「蜘蛛の巣型」の変形なのですが、劇場のファシリティが、市民に対して多様な「楽しみ方」と「遊び」を提供することで、公共的な意味をアーラに付与していると言えます。アーラはいわば「ジャングルジム」のような多様な価値観を受け入れる「場」となっているのです。これは市民の生活に深く関わるという意味で、ソーシャル・マーケティングの一手法と言えます。そういう「場」であり続けるために、私たちは「禁止事項」を出来るだけ排除しています。居心地の良い場所であろうとしています。そのことによって、市民の自由な発想を受け入れられる「ジャングルジム」たらんと考えているのです。
「勁草」になるということは、必ずしも派手なマネジメントやマーケティングをすることではありません。そのほとんどが地を這うように地味で、根気強い姿勢によって貫かれる経営姿勢です。その積み重ねによってはじめて手に入れられる公共文化施設としての存在証明です。そのような経営姿勢を手に入れるには、現実の困難性、つまり「疾風」としっかり向き合うではないでしょうか。「窮すれば即ち変ず、変ずれば即ち通ず」(『易経』)で、「疾風」の凄まじさとしっかり向き合うことで「窮する」のであり、その先に自らの「変化」があり、新しい道が見えてくるのです。「勁草」になるためにどのような経営努力をしているか、いま、私たちに厳しく問われていることだと思うのです。