第57回 可児の秋に想う。
2009年10月10日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
東海三県のローカルの天気予報をテレビで見ていて、いまでこそおおよそ可児市がどの辺りにあって、明日の天気や気温を推し量れるようになりましたが、可児に居を構えて二年ほどは、可児市が岐阜県のどのあたりに位置するのかははなはだ心許ない状態でした。縁もゆかりもない可児市に、アーラという劇場のポテンシャルだけに惚れこんで引っ越してきました。来た当時のアーラは、2500ほどある公共ホールのワン・オブ・ゼムという状態で、並の施設経営しかやっていないという感想を持ちました。職員の顔にも覇気はないし、お客さまに喜ばれる劇場という素晴らしい職場で働いている喜びや誇りを感じられない空気がありました。ただ、この劇場の可能性は無限大とも思えるものがありました。ですから、還暦の年に可児に来た私は、アーラを私の最後の仕事場であり、いわば「遺書」にしようと思いました。それまで私が培ってきた劇場経営のノウハウ、見聞や経験、人脈のすべてここに投入しようと考えました。何年かかけて「遺書」に仕上げていくだけのポテンシャルはアーラには絶対にある、と思いました。可能性としては、日本を代表する地域劇場になれるだけのものがアーラにはあると、長年世界中の地域劇場を見てきた私の目には映ったのです。
忙しさは相変わらずです。休日はたいてい東京か他の地域に出かけて、講演や委員会、審査会をしています。それでも月に20日間程度は可児で生活をしています。体力的にはかなり過重な日程で動いているのですが、仕事にいささか疲れを感じると、私はアーラの西側に位置する職員通用口や水と緑の広場に面したウッドデッキで一服しながら、来し方を振り返り、これから進めるべき二、三年間の仕事の進め方を頭の中で整理します。
アーラには東西南北の四つのエントランスがあります。いわゆる専用の楽屋口はありません。俳優も音楽家もスタッフも市民も、皆、そのいずれかのエントランスからアーラに入って来て、退出するようになっています。この設計は「文化の民主化」という意味で、素晴らしいと感じています。正確に言えば、もう一つエントランスがあります。それが西側の高台に位置する職員の通用口で、可児市や隣接のまちを一望でき、近くの鳩吹山をはじめとする里山をぐるり望め、遠くは石川県や福井県の山々までも見通せる180度のパノラマ展望を味わえる場所です。台風一過、そこからの眺めも、急速に秋めいてきました。冬の足音が微かに聞こえるほどに朝夕の風は少し肌を刺すようになってきました。この時季の、鳩吹山あたりに太陽が沈む夕景は絶品です。『向日葵の柩』の主役で、稽古で可児に滞在していた山口馬木也が「恋人たちの夕景」と言った程の絶景です。私は仕事に疲れて考え事をしたい時には、ここからの眺望か、水と緑の広場で遊ぶ子供たちや家族づれを見ながら一服するのです。
そういう時、私は「可児に来てよかった」と心から思います。勿論、ハードルの高い仕事は沢山ありますし、物事が思ったスピードで進まないこともあります。ストレスは相当なものです。けれども、風を切り裂いて走っているという確かな充実感はあります。あのまま大学の研究室にこもって、学部生や院生とゼミで研究を進めていても、それはそれで楽しい時間だったのですが、この「風切り音」は聞けなかっただろうなと思います。私の芸術文化に関わる人生の最後の最後に可児にたどりついたことを、私は「幸い」であると感じています。
「ただの田舎まち」と可児の人は謙遜して言いますが、アーラにはいつも多くの人々が行き交っていますし、文化的素養の高い市民が本当に多くいらっしゃるし、それに朝夕の挨拶を交わす温かいならわしがあるし、私には、可児は結構「イケテルいなか」だなぁ、と思えます。美味しい店も二年半いて、いくつか見つけました。可児は内陸の町だから新鮮な魚はなかなかないだろうと思うかも知れませんが、とんでもありません。鮮度抜群の魚を食べさせてくれる店を「発見」しました。手打ちそばの美味い割烹と、ネタが新鮮で仕事をしたにぎりを出してくれる鮨屋です。まだ数回しか通っていませんが、イタリアンやフレンチの店も標準以上ですし、ラーメンの隠れた名店もあります。どうせ食べるなら美味いものを食したい、と思っている私の舌にかなったのですから、これだけあればかなり「イケテル」とは思いませんか。
そのうえ、突然ですが、可児市の生活保護世帯の保護率はどのくらいだと思いますか。わずかに0.13%(平成19年度)です。全国平均が11.7%(平成17年度)ですから、これはすごい数字です。いま大きな社会問題となっている就学補助も二世帯のみです。想像を絶するほどの大金持ちはいないが、格差の少ない、住みやすいまちと言えるのではないでしょうか。緑が多く、人間が温かい、本当に良いまちと言えます。
「可児に来てよかった」と思うのは、何もアーラが素晴らしい劇場だから、だけではないのです。まち全体が心休まる環境にあることが大きいのではないかと思っています。今日、美術ロフトでは、可児市公共施設振興公社が所管するわくわく体験館のガラス工芸教室の生徒さん達による「ガラス工芸作品展 ものがたり」が開かれています。市民たちの素晴らしいステンドグラスの力作が展示されています。色とりどりに彩られた光のハーモニーに「こころ豊かな町だなぁ」と、展示を見ながら思いました。
田んぼでは稲の刈り取りが始まっています。晩秋の風物詩である刈り取った稲を風干しするはざかけの光景が、可児ではもうすぐ見られるようになります。