第43回 ブルートレインに乗って―無鉄砲な旅は。

2009年3月18日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生


市民ミュージカル『愛と地球と競売人』の本番を控えた前夜、帰宅してテレビをつけるとニュースでブルートレインの最後の東京駅出発の映像が飛び込んできた。3月13日を最後に寝台特急「富士・はやぶさ」がダイヤから消えるというニュースでした。

一方では、子ども59人、大人41人、可児ウインドオーケストラ40人、スタッフ49人の189人に、お手伝いのお母さん方を加えると200人に及ぶキャスト・スタッフが劇場に張り付いている市民ミュージカルのリハーサル。「交通整理」だけで大変な、てんやわんやのリハーサルの上へ下への大騒ぎ夜と、そのあとのブルートレインの最後の勇姿の映像、不思議な感覚になりました。私の中で45年の隔たりが同居して、そのあいだで私が宙吊りになっているという妙な気分になりました。

というのは、45年前に、私はブルートレインに乗って無鉄砲な旅をしたことがあります。現役のときに滑り止めなしで早稲田大学の文学部だけを受験しました。そして、試験の翌日に思い立って時刻表に首っ引きになって、その日のうちにチケットを買い、あくる日にはブルートレインで京都に向かっていました。未成年なのにトリスのポケット瓶を駅で買いました。いろいろな意味での「冒険」でした。車窓に過ぎる都会の明かりを見ながら、瓶のふたで飲んだウイスキーがものすごく美味くて、大人になった気分にちょっと興奮して寝付かれなかったのを憶えています。

行程は、奈良に行って小林秀雄の随筆に出てくる秋篠寺を訪ね、堀辰夫が書いた唐招提寺、西大寺を歩いて、それから京都の栂尾に行き空海が初代の住職だった神護寺と、栄西が唐から持ち帰った茶の木を植えたといわれている高山寺を訪ねました。西大寺の無人の参道に猫が死んでいたのを憶えています。

どこに宿泊したのかはまったく憶えていないのですが、どうしても泊まらないといけない所だけは「飛び込み」だったように記憶しています。あとは車中泊か駅の待合室での仮眠で、車中泊の場合は、自由席でしたからほとんどは通路に新聞紙を敷いて身体を休める旅でした。京都の後は北陸本線と奥羽本線の鈍行で北上して、山形の新庄まで行き、陸羽西線と陸羽東線と東北本線を乗り継いで平泉に降り立ちました。ここでは奥州藤原三代の跡を訪れました。雪がうっすらと残っている中尊寺と、弁慶が立ち往生して、義経が自刃した場所と言いわれている衣川の館跡に祀られている、北上川を見下ろせる小高い山の上にある小さな祠、礎石と「心」の字を模した池だけが寒風の中に寂然とあった毛越寺(当時はまったく整備されていない広大な空き地の感がありました )と歩きました。宿泊はかつての本陣だったすごい建物の宿に「泊めてくれますか」と飛び込みでお願いした覚えがあります。六十畳くらいの、絵の描かれたやたら高い天井の部屋にポツンと泊まりました。それから東北本線で福島の二本松という駅で降りて、バスで岳温泉に向かいました。東京までは『智恵子抄』を訪ねる旅でした。光太郎と智恵子が療養で逗留した岳温泉では、スキー客でいっぱいの宿になんとか泊まれました。翌日には九十九里浜に向かっていました。旅館に宿泊したのは三泊だけの一週間の「小さな冒険」でした。いま想い起すと、ずいぶんと無鉄砲なことをしたな、と思います。

ブルートレインにはその後もう一度乗っています。二十一歳の頃、北海道の友人が自殺をして、彼女の通夜と葬儀に列席するために、上野から札幌まで「北斗星」を使いました。その三日前に旭川に帰る彼女を見送ったときも「北斗星」でした。おみやげに、なけなしの金をはたいて銘菓「ひよこ」を持たせました。東京にいた恋人に会いに来た彼女に何があったかのかは訊かないままでした。あまり思い出したくない、心が深々と冷える出来事でした。その数か月後に黙って家を飛び出して、一年近く旭川の鉄工所に住み込んだことがありました。何もしてやれなかった彼女に詫びる場所として、私が選んだのは、彼女が成人式の日まで生きた旭川だったと、いまになって思います。

若い頃には本当に無鉄砲なことをしてきました。そして、60歳を過ぎたいまでも、その「無鉄砲さ」は変わっていないな、と思います。自分ながらに呆れるほどです。性分というのですかね。二年前にアーラに来て、アーラ・コレクション・シリーズの第一回に『向日葵の柩』をやると言ったり、イルミネーションで水と緑の広場を飾ってアーラ・クリスマスをやろうと言ったり、市民ミュージカルもそのときに「やる」と言い放った事業です。市民100人の参加、とその時には思っていましたが、蓋を開けたらおよそ200人の市民が参加してくれました。子ども達の涙や笑顔、大人たちの達成感のある表情を見ていると、「無鉄砲さ」も悪くないな、と思います。世代を越えた沢山の出会いをつくることができたのを見て、いい仕事を見つけたな、と思います。その「無鉄砲」に付き合わされる職員は迷惑でしょうが、私の「無鉄砲な旅」はいまも続いているようです。