第42回 「恩送り」という言葉―生きることの意味。

2009年3月9日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生


本の裏表紙や色紙に「何か、書いてください」と稀に頼まれることがあります。いささか照れくさいことですが、そういうときに私は「情海一舟」という造語を書くことにしています。私たち人間は、一人では小舟のような頼りない存在であり、荒れたり凪いだりする人情の海をあてどもなく木の葉のように彷徨っている、というような意味です。そのことを承知していれば、私たちは、自分は「生かされている」という謙虚な心持になると思うのです。他者によって自分は生をまっとう出来ていると感じられるのではないでしようか。

「恩返し」は誰かの恩に報いることです。「恩知らず」は受けた恩を忘れることです。「恩着せがましい」は恩を押し付けることです。ここに「恩送り」という素敵な言葉があります。受けた恩を誰か他の人に送ることです。私たちの「生」は、その「恩送り」によって脈々と何世代にもわたって、時代を超えて連なっているのではないでしょうか。それだけではありません。受けた恩を誰かに手渡すことで、私たちは、互いに生かし合っている、支えあっているのではないでしょうか。「いま」を生きているということは、そういうことなのではないでしょうか。「恩送り」をし続けて、人々が連なっていくということは、社会という「情海」を凪の状態に保つ役割を果たしてくれるのではないでしょうか。

ただ、「恩送り」をできるということは、恩を感じるしなやかな感性がなければなりません。他者に対しての適度の緊張感と柔軟な感受性と豊かな想像力がなければ、他人から受けた行為に感謝することはできません。そのような感覚が昨今の日本では希薄になっているように思えてなりません。他者に対する心の距離感覚が麻痺しているとしか思えない出来事があまりに多いのです。「ジコチュウ」の風潮が蔓延しているとしか思えません。明日食べることや、明日寝る場所に思いをめぐらせなければならないのに、他人に構っていられないのは理解できます。ただ、誰かに恩を感じたり、他人に感謝したり、他者の存在をありがたいと思ったりする心は、決して干からびさせてはいけないと思います。それは人間だけが感じることのできることだからです。人間としての矜持といえます。健全な社会をつくる基本であると思うのです。

私にとっての恩人は折々に何人もいます。高校の野球部で二、三年生が対立して退部してしまい、一年生だけのチームになって新米主将をやっているときに、軟式じゃ夢がないだろう、実績を作って硬式野球部にしようと、私たちの練習を見ていて申し出てくれた呼元監督。明治大学から社会人野球に進んで、現役を引退したばかりの方でした。同世代だけなのでチームをまとめることに四苦八苦していた私に大きな「夢」を与えてくれた恩人です。何よりも「硬式野球部に」という言葉でチームが一丸になったことに、いまでも感謝していますし、「夢」を共有することの大切さとその強さを教えてくれた恩人でした。出ると負けの「一回戦ボーイ」だった私たちは、呼元監督の指導で、半年後には東京都予選でベスト8になり、職員会議でのすったもんだがありながらも、生徒会をはじめ一般生徒たちの後押しで「硬式野球部」になったのでした。

大学時代には、私が物書きになる遠因となった松永伍一さんの『底辺の美学』という本に出会いました。精神をいささか病んで、市販の精神安定剤で均衡を保とうとしたために薬物中毒にもなり、早稲田の近くの病院に入る羽目になったことがあります。一ヶ月くらいして外出許可が出て散歩に出かけました。そして、病院の近くのいまにも崩れそうな古本屋で表題だけに惹かれて買ったのが『底辺の美学』でした。『底辺の美学』にはガツンとやられました。病室のベットの中で何回も読み返しました。大学に入ったばかりの生意気盛りの私は、底辺の人々の生き様を綴った松永さんの筆の運びに、自分の浅薄さを思い知らされました。私はその頃の大学生並みの社会への批判精神を持っていましたが、それが山の裾野から頂上を見て批判していたようなもので、『底辺の美学』に出てくる、まさに底辺で生きている人々の生は、谷底から谷の深さと山の高さを同時に見上げながら、それでも「いま」を呼吸しているのでした。恥じ入りました。心が粟立ったのでした。「お前は甘っちょろい」と言われているようでした。その後の私の弱い者の側に立つという生き方や物の見方に大きな影響を与えてくれた恩人です。

それと松永伍一さんの文体というか、文章表現にも、私は魅入られました。名も無い人々に寄り添って、その想いと生き様を読者の心に届けられる、こういう物書きになりたい、と私は深夜の病室で思ったのでした。そののち、私は『闇一族』という雑誌を仲間と出版することになるのですが、松永さんのお宅に押しかけて、その創刊号に「子守唄」についての原稿を寄稿していただくことになります。むろん原稿料はゼロです。そののち、何度も私は松永さんを訪ねていろいろとお話をしました。勝手に物書きとしての我が師と仰いで私淑していたのでした。

このように考えてくると、私には恩人と思える方が何人もいます。その中には父母も入ります。何も言わずに大学を辞めて、その後物書きになっても、原稿料は安くてそれだけでは生活ができずにアルバイトをしながら本ばかり読んでいる息子を、よくぞ文句ひとつ言わないで放っておいてくれたと思います。いまでは、放っておいてくれたことに深い愛情を感じます。そんな父母との別れを意識したのは二十代の半ばでした。彼らが六十代に入った頃でした。

多くの恩人のほとんどは鬼籍に入っていますが、私はその受けた恩を、これから私と関わる人たちに送っていかなければならないと思っています。その帳尻が合ったときに死を迎えられれば幸甚と思っています。「生きる」ということは、感謝の気持ちを恩送りして帳尻を合わせる生き方のことではないでしょうか。「情海一舟」だからこそ、「恩送り」をして生き合うのが社会の健全な姿なのではないでしょうか。