第40回 句読点を打って ― 最後のゼミ。
2009年1月15日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
「2009年1月27日」は私にとって記憶に残る日になりそうです。宮城大学での最後のゼミを開講するからです。はじめて宮城大学に行って学生たちと顔を合わせたのは、2001年の10月31日でした。当時、早稲田大学で教えていた私は、最寄り駅の高田馬場の近くの喫茶店で宮城大学の教務の先生から「後期から宮城大学に来てほしい、県立大学なので職務専念義務があり、兼職はできなくて窮屈だと思いますが、ゼミを持ってください」という話を伺いました。54歳の時です。
40代後半から北海道劇場計画に6年間かかわったあと、知事が代わって計画自体が凍結となり、私はこれからどのように生きていこうかと考えている時でした。35年間の蓄積を活かして日本を代表する地域劇場をつくるという大きな目標が唐突に目の前から消えてしまったこともあって、このまま演劇評論の合間にいくつかの大学で集中講義をして、ときどき地域で舞台をプロデュースする人生になるのかな、と思っていた時でした。「頑張っても、せいぜい15年。もうおそらく劇場づくりに関わることはないだろうから、私の経験と蓄積のDNAを若い才能に移していければ、私の文化芸術や地域劇場の考え方が彼らの中で生き続けてくれるだろう」と前向きに、そして楽天的に自分の生きてきた意味を考えました。
そして、初登校の日になりました。「後期になってすぐには大学には行けません。いま進行している仕事を一段落させてから伺います」と言ってあったので、「10月31日」になったのです。前日まで、アーラにも来た『おーい幾多郎』のドラマリーディング公演のため演出の西川信廣氏と、金沢のマンスリーマンションに滞在していました。東京にはタッチ・アンド・ゴー状態で翌日に大学のある仙台に向かいました。
前任者が不祥事で懲戒免職になったこともあり、お互いに少々緊張気味な学生たちとの初顔合わせでした。大学院生はその年の6月に秋田で開催された文化経済学会<日本>の研究大会で名刺交換をしていたこともあり話は弾みましたが、学部生の三回生、四回生との会話はいささかギクシャクしたものでした。この子たちが伸び伸びと学究生活を送れるようにするにはどうすれば良いだろうか、というのが一週間後の最初のゼミ開講までに私に課せられた重いテーマでした。
「ともかく教師と学生という縦の関係を極力排除しよう」というのが私の出した結論でした。私はゼミ生たちの「ハブ」になろう考えました。自転車の車輪は「ハブ」を軸にして数多くのスポークが「車輪=和」を作っています。ハブがなければ車輪は回りませんが、スポークがなければハブも機能しません。その双方が正しく機能してこそ、車輪は円滑に回り、車輪としての役割を果たすのだと考えたのです。私のゼミはそうしよう、と思いました。自由に、のびのびとゼミ生たちが私と対等に会話し、意見を交換し、それぞれの研究テーマを前に進めることのできる研究室の空気をつくる、ゼミ生たちとのちょうどよい距離感をとる心のフットワークを取り続ける、それが私自身に課した最大のミッションでした。英国の地域劇場や米国の地域劇場にも一緒に出かける機会をつくりました。彼らと同じ年頃に私ができなかった経験をしてもらおうと心掛けました。
最後のゼミを終えると、長かった仙台との関わりも終わります。宮城大学に奉職する前年まで、私は8年間、仙台市青年文化センターという公共文化施設で「劇都仙台」というプロジェクトのプロデューサーをしていました。ですから、つごう足かけ16年間の仙台通いが終わることになります。一昨年は大学や大学院の講義やゼミが毎週11コマありましたから、水曜日に東京から仙台に行き、金曜日に仙台→東京→名古屋→可児をドア・トゥ・ドアで6時間半かけて通い、3日間アーラで仕事をして、月曜日の夜に東京に戻るという生活をしました。いま想うと、「よくもったな」と思います。同じことをやれ、と言われても、もう二度とできないでしょう。正直言って、もう二度とやりたくありません。身体が痺れるほどの疲労感が、東京に帰る新幹線で襲ってくること度々でした。
そして、可児が私の最後の土地になります。私の最後の仕事場になります。北海道劇場計画で果たせなかった「日本一の地域劇場、世界水準の地域劇場」をアーラで実現しようと考えています。それにはちょっとばかり時間が足らないのですが、走るだけ走ろうと思います。職員たちとの関係は、大学のゼミでの考え方と同じです。私は「ハブ」になります。そしてしっかりとした、きれいな「車輪=和」をつくりたいといつも思います。強い組織を目指したい。それが可児市民の皆さんに行き届いたサービスを提供できる基盤づくりになると信じています。私が常々言っている「人間の家」としてのアーラの強靭な骨格になると思います。
偶然ですが、大学での生活に句読点を打つ日の前日に、私は62歳の誕生日を迎えます。そこを新たな出発点にしてアーラの発展に打ち込むようにとの「天の配剤」なのかも知れません。