第39回 ツケまわしが来ている―品格のない、危ない国を誰がつくった。
2009年1月15日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
90年前後のいわゆるバブル時代に「フリーター」と呼ばれ、組織に縛られない自由な若者の新しい働き方、生き方としてもてはやされた人たちが容赦なく放り出されています。また、20代から30代半ばまでの人の約半数が非正規の雇用関係にあるそうです。Googleで「派遣」で検索すると8540万件ものサイトが表示されます。Yahooだとなんと3億3100万件です。高校野球の監督時代や大学の教員をやっていた頃、卒業間近の学生が「フリーターをやります」と胸を張って明るく言っていたのを思い出します。そのたびに私は彼らをたしなめましたが、「組織に縛られない働き方」、「自由な生き方」は確かに若者には蠱惑的(こわくてき)なフレーズでした。
早稲田大学で演劇活動をやっている頃、活動が忙しくて長期のアルバイトが出来ずに「寄せ場」に行って仕事にありついていた頃があります。大学の最寄り駅の山手線高田馬場駅から新大久保方面に少し行ったところの公園付近にもうもうと湯気が立っており、身体の温まる安直な食事を売っている出店が立ち並んでいました。そこに手配師(まあ、だいたいヤクザですね)がうろついて、集っている労働者・学生を値踏みするのです。人数をまとめるとバスやトラックに載せて仕事場に連れて行く仕組みです。「日雇い」です。山谷や釜が崎の映像でご覧になった方も多いはずです。二、三年前にテレビで日々派遣の人が携帯にかかってきた電話でその日の仕事にありついている場面を見て、「あれと一緒じゃないか、携帯を使っているからスマートに見えるけど、ニコヨンだな、あれは」と思ったことがあります。
戦後、東京都の失業対策事業で公共事業をしたことがあります。この事業に従事する日雇いの労働者のことを「ニコヨン」と言っていました。日当が240円で、百円札二枚と拾円札四枚を支給されることからそう俗称されていたようです。もう死語になっていますが、私が子供の頃は一種の蔑称、差別用語のように使われていました。「フリーター」なんて決してスマートな働き方ではないな、と思いました。自由な生き方でもない、と複雑な思いになったのを覚えています。
東京・日比谷公園の年越し派遣村がクローズアップされて、派遣社員の雇い止めによる悲惨な実態が国民の耳目を集めることになりました。さらには「2009年問題」というのがあります。今年の3月以降契約切れになって失職する製造業の派遣労働者が8万5000人を超えると言われることを指しています。これは厚生労働省の調査結果であって、実態はもっと深刻な数値ではないかと想像できます。さらに昨年末から6月までに失業する正規、非正規の社員は170万人にも上るというエコノミストもいます。大企業が1兆円原産すると、下請け・孫請けへの影響は3.1兆円にも上ります。非常に多くの人々が仕事にあぶれてしまうのは容易に想像できます。これが「2009年問題」です。
これは単に「失業者問題」や「不景気」や「格差問題」というだけにとどまりません。私が子供だった頃のような失業対策事業をすれば事足りるという問題ではないのです。「2009年問題」は、人心をささくれ立たせるでしょう。人々の関係はきしみ、人々の心はザラザラと音を立てるようになるでしょう。それは社会不安の深刻化や社会コストの負担増大を意味しています。国民の生活環境は確実に悪化します。粗暴犯罪や凶悪犯罪の件数は大幅に増えるでしょう。可児にいるとさほど感じないのですが、東京の雑踏を歩いていると、何時、誰が刃物を振り回しても不思議ではない、という恐怖がふっとよぎることがあります。
2004年の改正派遣法によって製造業への人材派遣が解禁となり、05年におよそ7万人だった製造業の派遣労働者が2年後には約46万人となんと6.6倍にもなったそうです。規制緩和でアメリカ型の市場原理的な社会を目指して「改革」とやらを推し進めてきた結果のひとつが、「2009年問題」なのです。「改革」という言葉は耳障りがよく、とても良いことのように思いますが、悪い「改革」もあることを日本人はすっかり忘れていたようです。
篠原涼子の主演する『ハケンの品格』というTVドラマがありました。平均視聴率は20%を超えていたそうです。何回か見たことがありますが、派遣企業「ハケンライフ」の特Aランクのスーパー派遣社員の大前春子の格好良さに、胸のすく思いをした視聴者がいたことは想像に難くありません。ただ、私はこのドラマに危険な臭いを感じていました。あのマスコミが持ち上げた「フリーター」という言葉の<格好良さ>、人を惑わす<蠱惑的な響き>に通じるものがあるな、と思っていました。制作サイドはそういうつもりはなかったと弁明するでしょうが、マスコミはいつも無責任な煽り方をします。「社会の木鐸」という言葉があるように、マスコミは、どんなときでもぶれない社会正義を矜持としてもっていなければならないはずなのですが、それがまったく機能していないとしか思えないことが多すぎます。こんな結果を生むことになった「改革」を、マスコミはなんであんなに支持して、なおかつ煽ったのでしょうか。
「ツケ」をまわされて支払わされるのは、いつも国民です。普通の人々です。日本という国はいま物凄いスピードで劣化しています。人間を「モノ」として扱い、景気動向の調整弁のように雇い止めをしています。品格のない国になってしまいました。不謹慎な言い方かも知れませんが、私は昨年多く起こった無差別殺人の被害者も「ツケ」を払わされたのだと思っています。一方で「規制緩和」を金科玉条のように持ち上げていて、一方では無差別殺人に対して正義感を振り回す。「いざなぎ景気」を超える好景気と言われながら一般社員の給与は9年間下落し続けているのがどうしてなのか分かっていたくせに、一方では年越し派遣村を大きく取り上げて「正義感」を振り回している。その軸足のブレはいったい何なのでしょう。彼らも「同罪」ではないでしょうか。社会的影響力のあるメディアを持っているという自覚、自分たちの仕事の社会的責任をもっと感じてよいのではないでしょうか。煽られて、踊らされて、ツケをまわされて、支払うのは、いつも私たちなのです。変な世の中になったと思いませんか。
そんな世の中になってきたからこそ、アーツの社会的役割や劇場の公共的なミッションは以前にも増して重要になってきます。アーラは来年度から、教育機関、福祉施設、医療施設へのアウトリーチ・プログラムを重点施策のひとつにします。アーラに何らかのご都合でいらっしゃれない方々のところには、こちらから出向こう、という考え方です。「オルタナティブ・アーラ」(もうひとつのアーラ)という考え方です。そのためのアウトリーチ・コーディネーターを配置します。社会機関としてのアーラへ大きく一歩を踏み出します。その活動を応援してくれる市民や企業のサポーター「エンジェル」を一口1000円で公募します。経済的な支援になる額ではないですが、大切なのはアーラという「装置」を使って市民一人ひとりが社会につながるということだと思っています。実際の活動の協働者には、アーラの設立以来のパートナーであるボランティア組織アーラ・クルーズの皆さんにお願いします。
こんな世の中だから、せめてアーラは可児市民のシェルター(避難所)でありたい、と思います。ラスト・リゾート(最後の拠り所)でなければならない、と風邪気味の身体を持て余しながら正月休みに考えていました。