第38回 パブロ・ピカソのように。
2009年1月7日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
今年も年末年始は箱根の強羅温泉に行ってきました。可児から東京に戻ったとたんに風邪気味になりました。仕事納めで気が緩んだのでしょう。風邪薬を飲んで、温泉に入って、酒を飲んで、眠る、の繰り返しで、何ともしまらない年末年始でした。
それでも、ポーラ美術館には出かけました。行かないと一年が終わらない、という感じなのです。
企画展は「佐伯祐三とフランス」でした。小企画展は「レオナール・フジタの小さな職人たち」です。
高校時代からユトリロが好きだったこともあり、佐伯祐三のパリの街の描写にはユトリロと共通する界隈性があって面白く見ることができました。ヴラマンクとユトリロの影響を強く受けた画家だったことが展示を通してみると良く分かります。ただ、彼がパリから帰った折に描いた「下落合風景」にはいささか疑問符がつきました。あまりにも平凡なのです。彼はパリの街を描いて本領なのではないかと感じました。
「レオナール・フジタの小さな職人たち」は楽しい展示でした。レオナール・フジタは、藤田嗣治画伯がカトリックの洗礼を受けてから名乗った名前で、晩年に描いた様々な職人に扮した子どもたちのユーモラスな筆致の三十六点が展示されていました。ノーマン・ロックウエルに通じるユーモアと人間に対する温かい眼差しを感じました。
今回は展示されていませんでしたが、このポーラ美術館に収蔵されているピカソの<青の時代>の「海辺の母子像」を、なぜか展示室から出てソファに座っているときに思い出しました。おなじ箱根には彫刻の森美術館があります。野外にヘンリー・ムーアをはじめとする現代美術が展示されていてなかなか面白い場所なのですが、その敷地内にピカソ館があります。ここは一見の価値のあるところで、ピカソの生涯にわたる作品が展示されています。それらを通して見ると、パブロ・ピカソという天才が、生涯にわたって「新人のように」作品を生み出していることが良く分かります。同じ画家が描いたものとは思えないほど、作風は時代によって大きく変化します。「海辺の母子像」の<青の時代>から<薔薇色の時代>、<キュービズムの時代>、<新古典の時代>、<超現実主義の時代>などなどと変化しますし、使う素材も油彩だけにとどまらず、版画あり、陶器だったり、彫塑だったり、ガラス工芸だったり、タペストリーだったりと、好奇心のおもむくままに創作しています。いつも「新人のように」挑戦な創作姿勢を持っていたことが窺えます。
「見習いたいな」と思います。ポーラ美術館のソファでピカソのことを考えたのは、私がアーラにいることと無縁ではないと思います。アーラの経営のことを四六時中考えていますが、いつも思うのは、誰も歩いたことのない道を進みたいということです。私たちの歩いた後に「道」が出来るような経営をしたい、と願っています。何処の公共施設もやらなかったことにアーラはいつも挑戦し続けたい、というのが私のアーラにいる存在価値だと思っています。パブロ・ピカソを「見習いたい」というのは、今の私の立場がそう思わせているのでしょう。アーラを進化させ続けたい。アーラがひとところに止まることはない。決して現状に満足しない。パブロ・ピカソのように「安住しない」クリエイティブな精神を持ち続けなければ、と常日頃から思っています。
可児に来てからは、いつも何かに急かされているように生きています。相当なプレッシャーの中で生きています。しかし、この「感じ」がなくなってアーラの進化が止まったら、私はそのときを退くときと腹を括っています。人間には限界がありますから、いつかはその時が来るだろう、パタッと足が止まってしまうときが来るだろうと思いますが、それまでは「パブロ・ピカソのように生きていたい」と、心の底から思うのです。