第33回「グローカル」って何?
2008年11月20日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
東京大学教授で、さきほど地方財政審議会会長となった神野直彦氏に『地域再生の経済学―豊かさを問い直す』というなかなかユニークな発想の一冊があります。最近のグローバル経済の破綻、金融危機にあって、グローバル化とローカル化を両立させた「グローカル」という考え方に立つべきと説いています。「グローバル化した経済が激しく動揺しても、それぞれの地域が地域色豊かに自立したローカル化をしていれば対応できる」という立ち位置は、可児市にとても参考になる考え方だと思います。
神野氏は、小泉改革の「三位一体改革」を、地方分権の名を借りた中央政府の財政再建に過ぎないと断罪したり、「改革」の美名で格差社会を日本に持ち込んだ新自由主義を激しく批判するなど、『人間性回復の経済学』という題の著書がある人らしく人間に温かい眼差しで社会・経済を論評する識者です。私が劇場や社会のあり方を考えるときに指標となる人物の一人です。
今日、東京からの戻りの新幹線の中で読んでいた毎日新聞の社説に、しばらくのあいだ釘付けになりました。「刑務所が老人施設でよいのか」と題された社説です。それによると、法務省が出した今年の『犯罪白書』では、刑法犯の検挙数は三年連続で減少しているのに、高齢者のそれは、十年前の3.8倍、二十年前の約5倍にもなって、過去最多となっており、刑務所に収容された高齢者も二十年前の約6倍になっているという。平成10年(1998年 )に三万人を超えた年間自殺者数の中でも、およそ三分の一が60歳以上の高齢者であり、50歳以上になるとおよそ50%になると言います。(平成19年 警察庁統計)
この二つの数字から私は、「将来への漠とした不安感」、「社会的孤立への焦燥感」、「生活の困窮」、「身の置き所のない寄る辺なさ」という共通項を見出します。この共通項を一言で言いあらわせば「コミュニティの崩壊」です。社会の「いびつさ」は、いつでも弱い者のところに顕著に現れます。子ども、障害者、そして高齢者が、いつの時代でも、何処の国でも、社会の歪みの犠牲になります。二つの数字から透けて見えるのは、日本という国が壊れかけている、という事実だと思います。あるいは、社会的弱者を踏み台にして成立している国のかたちを思ってしまいます、「これで本当に良いのだろうか」と。
グローバリズムは世界的なメガトレンドであり、そこからは逃れようもなく私たちの生活はがあります。ならば、いまこそ「グローカル」に地域社会の舵を切るべきではないでしょうか。可児市の人口は十万人です。「田舎」と言う人もいますが、私はきわめて人間的なサイズのまちだと思います。だからこそ、グローカルに舵を切りやすいのではないか、と思います。
名鉄で可児に向かっているときに車窓に過ぎる風景を見ながら、ふとある思いが浮かびました。可児は「里山」のまちではないか。「里山」という言葉には、人間という存在にある種の回復力を与える響きがあります。「人口十万人」、「里山」、そして「劇場」― 三題噺みたいですが、この三つに共通するのは「人間」と「ぬくもり」です。どこか懐かしい温かさや温もりです。私は、皆があまり地域資源とは考えないこの「人口十万人」と「里山」と「劇場」を、逆転の発想で地域経営の資源と考えて、「自立したローカル化=グローカル化」に可児をシフトさせたらどうだろうか、と車中で考えました。
本当の意味での「豊かさ」のあるまちです。人間同士の関係の密度が高く、生きることの歓びにあふれたまち、可児。私は劇場の最寄り駅日本ライン今渡に着くまで、そんなことを夢想していました。この三つの地域資源は観光資源にもなる、と思っています。皆と同じ方向を、皆の後ろを追いかけるのではなく、まったく違った視角から地域を見てみることで、まったく違った「豊かさ」と「温かさ」が地域にもたらされるのではないでしょうか。可児は急速に高齢化が進むと言われています。高齢者をはじめとする社会的弱者がいきいきと暮らせるまちこそが、真に人間に優しいまちなのではないでしようか。「人口十万人」、「里山」、「劇場=アーラ」は素敵な地域資源と思うのですが、いかがでしょうか。