第23回 想像力の欠如が日本をおかしくしている。
2008年7月17日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
秋葉原の事件と関連したネット上の書き込みで30人の人間が逮捕されているという。20日間あまりで30人、いささか呆れるほどの人数です。
14歳の少年がバスジャックをする事件を起こしました。男女関係を注意した親を困らせようというのが動機のようです。「幼い」という以上に、私たちの理解を超えています。
ひょいと簡単に大事を起こしてしまう感覚には違和感をおぼえます。この「違和感」は何なのだろうかと考えてみました。そして、秋葉原の犯人の場合もそうだと思うのですが、「想像力」が欠如しているのではないかという考えに行き着きました。「欠如」というよりも「欠落」という言葉の方がぴったりかも知れません。
私たちはある行動を取ろうとするときに、それがどのような結果を招くだろうかと普通は考えます。以前に『どうして、こんなになっちまったのだろう』と題したエッセイにも書いた「自分を生かしてくれている他者の存在がない」、「自分が命の舵取りを間違えそうになったときに、<ちょっと待て>と背中を引っ張ってくれる他者の存在」がいないのではないだろうか。「他者との関係の濃淡から発する」と考えられる自分をコントロールする力がないのではないか。「自分を愛してくれる他者」と「自分が愛する他者」とのあいだの絆が不在なうえに「想像力」が欠落していれば、ちょっとしたことで暴走してしまうのは当然過ぎるほどの帰結なのではないでしょうか。
ネットの書き込みで逮捕された人間たちにも「想像力」が欠落していると感じます。インターネットは匿名性を特徴としている、と言われていますが、それは誰が何処を経由してメッセージを発信しているのかをたどれない、ということではないのはちょっと考えれば分かることです。彼らに感じる「幼さ」は「想像力の欠落」ゆえなのではないでしょうか。
私がおぼえる「違和感」は、彼らの「想像力」のなさが原因なのだと思うのです。自分がこういう行動をとったときに、自分の人生と、自分の周辺の人々の生き方に何が起きるのか、まったく想像できていないのではないか。秋葉原の事件も、バスジャックも、その他の理解を超えた事件はすべて、「絆の不在」と「想像力の欠落」が主因となっていると思うのです。「普通の子だった」、「成績は良かった」、「あいさつのできる子だった」などという現象分析は何の意味もなさない、と私は考えています。何よりも「絆」を取り戻すことと、「想像力」を涵養する家庭と学校、そして地域社会での「学びのあり方」を根本的に変えなければいけない、と心から思っています。
だから家庭にも学校にも、そして地域社会にも、文化芸術を導入しなければならないと思うのです。文化芸術は「想像力」を涵養して、他者との出会いと相互理解の中で「絆」を切り結びます。しかし、そのような数値化しないものを切り捨ててきたのが、経済性優先の日本の戦後社会でもあったのです。たとえば人間の価値を「偏差値」で計るような社会が、日本人を駄目にしてきたと思うのです。
英国では15年ほど前から、文化芸術などで人間の多様なあり方を社会総体に包み込もうとする社会政策として「ソーシャル・インクルージョン」という政策理念が取り入れられています。日本でも、2000年12月に厚生省社会・擁護局による「社会的な擁護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会」の報告書で、新たな福祉課題に対応するための方法を導く理念としてソーシャル・インクルージョンが位置づけられています。そのなかで子ども達は違いを豊かさとして、多様な「絆」と豊かな「想像力」を養っていきます。
日本に本格的な文化行政が始まって35年ほどになります。しかし、「現状は」と言えば、公立文化会館の予算の、最低でも80%は維持管理費に費やされています。貸し館のみの施設なら予算の98%強は建物の維持管理で消えてしまいます。つまり、日本の文化行政は建物の維持管理と言い換えてもよさそうなのです。そこで事業が行われないなら、「絆」も「想像力」も無縁な文化行政ということになります。これで文化行政と言えるのでしょうか。
いま日本の社会は劣化してきています。日本人は人間の価値を数値でしか認知できないようになっています。それだけに、いまこそしっかりとした文化施策を、社会施策を考えなければならないと思っているのです。