第21回「教育」と「エディケーション」は似て非なるもの。
2008年6月16日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
ふたたび秋葉原の事件で思ったことです。
欧米の文化施設やスポーツ施設に行くと「エディケーション・プログラム」が非常に充実していることに驚きます。私が懇意にしている英国北部のウエストヨークシャー・プレイハウス(WYP)などは、演劇を中心とした公演を専らとしているにもかかわらず、犯罪を犯してしまったり、麻薬に手を染めてしまったりして少年院や刑務所や更生施設に入った経験を持ち、学校をドロップアウトしてしまった十代の少年少女のための音楽プログラム「ファースト・フロア」があります。劇場近くのビルの二階がそのプログラムの会場で、ここに彼らと、普通に学校に通っている同世代の若者たちが集って、仲間を見つけてバンドをつくって文字通りの「音を楽しむ」ワークショップをしています。この中で才能を認められた若者は、市内にあるリーズ音楽大学への推薦入学が認められます。
劇場がこのようなプログラムを持っていることに驚きますが、そのほかにも子供たちが犯罪に巻き込まれたり、麻薬に手を出したり、非行の原因になったりする可能性の高い放課後対策として、スポーツと芸術と学習のワークショップ・リーダーを学校に派遣するSPARKというプログラムもあります。SPORTSの「SP」、ARTSの「AR」、KNOWLEDGEの「K」の頭文字をとって「スパーク」というプログラム名にしています。これもWYPという劇場が地域社会の未来のために提供している「エディケーション・プログラム」のひとつです。
このような「エデュケーション・プログラム」を日本では「教育プログラム」と翻訳していますが、どうも違和感を覚えます。相当にニュアンスと実際の違いがあるのです。
日本語で「教育」というと、上から下へ「教え諭す」という感じや、教師の知識を子供たちに教える「知育」という意味に使われます。「エディケーション」を語源的に探ると、「EDUCATE」の語源はラテン語の「EDUCATUS」で、「E」は「外へ」を意味する接頭語で、「DUCERE」は「導く」で、「能力を導き出す、引き出す」という意味になります。「教育」の持つニュアンスとはまったく違うとは思いませんか。スポーツに秀でた子はその能力を評価して大いに導き出し、語学に長けた子は国際感覚を身に付けるように導き、リーダーシップのある子にはグループをまとめるその力を十分に発揮する場を設定する。「エデュケーション」とは可能性を導き出すのに手を貸す、というようなニュアンスです。
事件後の秋葉原での街頭インタビューで「教育の問題ではないか」と答えている三十代の人がいましたが、「教育が問題」なら理解できますが、「教育の問題」ではいささか違うのではないかと思うのです。学校での学科成績がすべての評価、その人間をそれだけで丸ごと評価してしまう「教育」が問題だというなら分かるのですが、言葉のニュアンスは少し違っていました。
勉強のできる子、運動の得意な子、皆の空気を和ませる子、数学だけは飛び抜けている子、絵のうまい子、それぞれの「個性」を評価して初めてEDUCATE(可能性を引き出す)することになるのではないでしょうか。「学科の成績」という一つの物差しだけで人間の価値を計るという戦後社会の経済偏重主義が、人間を歪め、社会を歪める原因になっていると、私は思います。
私たちの社会がいま必要なのは、「教育」ではなく「エデュケーション」です。金子みすずではないですが、「みんな違って みんないい」のです。人間には、それぞれの顔が違うように、それぞれの個性と可能性があります。それを導き出して、お互いにそれを認め合い、つながっていく。劇場・ホールもスポーツ施設も、そういう「エデュケーション」が起こる場所なのです。
学校での授業の社会的成果や経済波及効果が翌年すぐにアウトプットしないように、劇場・ホールやスポーツ施設の経済効果や社会効果は、長い時間をかけて、雨が地表から浸み込んで、地中に蓄えられ、さまざまな栄養分を溶け込ませて、そして何十年もの時間をかけて私たちの生活を潤わせるように、ゆっくりと、しかし確実に、私たちの未来を創造するのです。教育、福祉、文化、医療、保育などの人に関わる仕事の成果は、明日すぐに出るというものでは決してありません。
エデュケーションの成果としての「みんな違って みんないい」という気長な心持ちになることが、いまの私たちに必要なのではないでしょうか。それが「穏やかな社会」をつくりだす原動力になるのではないでしょうか。そして、私たちの社会の未来を、そして子供たちの未来を創造するための、遠くを見る眼差しがいまこそ必要とされていると私は思うのです。