第18回 文化芸術のイノベーションを考える― 「クリティカル・ビジネス・パラダイム」で芸術マーケットの未来を考察する。

2024年5月29日

可児市文化創造センターala シニアアドバイザー 衛 紀生

近日に出版予定の『人間の安全保障としての芸術文化』の最終校正をしていて、立ち止まってしまいました。1994年の岡山県立美術館で最初に発言した「創客」から、97年に出版した『芸術文化行政と地域社会』での「福祉、教育、保健医療、保育などの地域社会が抱える諸問題にかかわり、その解決のための媒介的な役割を果たす社会的価値財でもあるとの認知を促して地域社会と行政に意識の転換を求める」の記述、そしてアーラで掲げた「社会包摂型劇場経営」は本当にイノベーションだったのかとの疑問が私の裡で首をもたげて、立ち止まったというよりもむしろ立ち尽したと表現すべき状態に陥りました。2022年夏に構想を仕立てて、秋から粗書きを始め、頼りにしていたアーラに関係した3人の急逝に遭遇しても緩むことのなかった執筆の勢いが、『クリティカル・ビジネス・パラダイム―社会運動とビジネスの交わるところ』を読むうちに、激しく内省する事態に見舞われてしまったのです。粗書き段階で参考にとざっと読んでいた山口周氏の『ビジネスの未来』が筆の切っ先にそこまで影響を与えなかったのですが、脱稿を間近にして軽い気持ちで取り寄せた新書には山口氏の奥の深い考究に行く手を遮られました。『ビジネスの未来』には「エコノミーにヒューマニティを取り戻す」という副題があって、GDPを嵩積みさえすれば様々な社会課題は解決するとの政治家・経済人から生活保護受給者までもが囚われている幻想を何とかしなければ、との思いと『芸術文化行政と地域社会』の執筆時から考えていた芸術文化の社会的諸機能の社会的認知の戦略に考えをめぐらせていた私は、この副題に惹かれて『ビジネスの未来』を手に取りました。そうこうして、またしても『クリティカル・ビジネス・パラダイム』の副題に釣り上げられることになります。

20世紀初頭の経済学者ヨーゼフ・シュンペーターは現代ビジネス界でも使用される「イノベーション」や「アントレプレナー」、「破壊的創造」といった言葉を生み出した碩学で、ピーター・ドラッカーや30年後の「未来」から現在の経営を捉える「パーパス経営」を提唱する名和高司氏一橋大学ビジネススクール客員教授の、再評価が必要であるとする経済学者で、とりわけ「イノベーション」は、単なる改革ではなく、(経済に限らず)成長の限界を突き抜けるための核心的な戦略と言えます。しかし、「イノベーション」を日本では「技術革新」ともっぱら訳されて、科学技術・工業技術の革新のように理解されて、盛んにDXこそが生産性を上げると喧伝流布されていますが、これが大きな間違いと心得違いを起こしています。「社会制度のリコンストラクション」が必要となると記したシュンペーターが、1912年に発表した『経済発展の理論』の中で「新結合」(new combination)という言葉を使って「イノベーション」の概念を定義しています。「新結合」とは、「従来の常識では組み合わせたことのない要素を組み合わせることによって、新たな価値を創造すること」と私は考えています。いわば「思い込み」や「常識」から離脱して、思いもよらぬものを結合させて「新しい価値を創造する」ことがイノべ―ションなのです。「技術革新」と思い込んでいること自体を疑うべきと私は考えています。

「既存の価値観や常識とされてきた概念などに対して『批判的であること』を本書における『批判的であること』の中心的な意味であるとすれば、対義語は『肯定的であること』、つまり『アファーマティブ=Affirmative』ということになります」として、氏は「アファーマティブ・ビジネス・パラダイム」と「クリティカル・ビジネス・パラダイム」を定義して、その差異を対照しています。

アファーマティブ・ビジネス・パラダイム」 投資家、顧客、取引先、従業員などのステークホルダーの既存の価値観や欲望を肯定的に受け入れ、彼らの利得を最大化させることを通じて自己の企業価値の最大化を目指すビジネス・パラダイム。

「クリティカル・ビジネス・パラダイム」 投資家、顧客、取引先、従業員などのステークホルダーの価値観を批判的に考察し、これまでと異なるオルタナティブを提案することを通じて社会に価値観のアップデートを起こすことを目指すビジネス・パラダイム。

この定義でスクリーニングすると、社会包摂型経営を導入した2008年当時は、「社会包摂」はまだ人口に膾炙しておらず、芸術経営に社会政策を双立させるソーシャル・ブランディングによって観客数と来館者数をあげる戦略的経営は「クリティカル・ビジネス・パラダイム」であったと考えられます。また、1997年の『芸術文化行政と地域社会』での「福祉、教育、保健医療、保育などの地域社会が抱える諸問題にかかわり、その解決のための媒介的な役割を果たす社会的価値財でもあるとの認知を促して地域社会と行政に意識の転換を求める」の記述も、仮説設定にとどまってはいるものの構想としてはイノベーティブなフェイズにあったと考えています。しかし1994年に岡山県立美術館でのシンポジウムではじめて発した「創客」は、ホール建設ラッシュのなかでマスコミを総動員したネガティブ・キャンペーンの中で四面楚歌の孤立環境にあった芸術文化とその機関の僅かに残されている突破口と考えての発言であり、その後の阪神淡路大震災での神戸シアターワークスでの経験が『芸術文化行政と地域社会』の記述に結実して、「社会包摂型劇場経営」への連続性へとつながったものの、当時は何らかの戦略と成算が見えていたものではありませんでした。その意味で、アーラの「社会包摂型劇場経営」は、その当時では「クリティカル・ビジネス・パラダイム」に入るマネジメントであり、「新結合」(new combination)のイノベーションだったと振り返ります。その頃のアーラに対するネグレクトを含めたハレーションを思い起こすと、芸術経営と社会的戦略政策という常識的には水と油、木に竹を接ぐような経営戦略は、業界では「新結合」と思われていた証左と考えます。東京大学先端科学技術研究センター特任教授の湯浅誠氏がかつてYahooニュースの『劇場は、芸術ではなく、人のためにある 観客数を3.7倍にした劇場がやっていること』は、この「新結合」が観客数と来館者数によるにぎわいを生んだことに触れています。(https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f3875b3facdd7e61010043ce86cec7a307f36c13)

ただ、『人間の安全保障としての芸術文化』を書き終え、入稿してから、その書で一貫して主張している「価値観・社会観・社会参加意欲、生活実感等を共有する新しいマーケット・トランスフォーメーション」へのチャレンジは、ESG投資の増大にともなうESG経営や社会的存在意義によるパーパス経営、さらにはエシカル消費という時代の空気の変化を追い風として成立させようとの戦略を私が持っている以上、アファーマティブ・ビジネス・パラダイムに傾斜している発想ではないかと内省しつつ、逆転の発想の糸口はないものと模索しています。確かに、湯浅氏の原稿が書かれた当時は「『善いこと』は『もうからない』はずでなかったか。余裕がある個人・団体ができるだけで、『ウチにはそんな余裕はない』と。まずもうけて(成長)、それからチャリティ(分配)するのがセオリーで、そのセオリーを踏み外せば本体がつぶれてしまって元も子もなくなる・・・はずだろう」との記載のように常識的には、あるいは無意識のバイアス(アンコンシャスバイアス)によって芸術経営に社会的戦略政策を組み込むことは「常識はずれ」だったわけで、しかし、その成果を演繹的に推理しての「新しいマーケット (MX)への転位」が何故クリティカル・ビジネス・パラダイムに包括されないのか、ロジックの組み立てを再考しなければと考えています。

ただ、「価値観・社会観・社会参加意欲、生活実感等を共有する新しいマーケット・トランスフォーメーション」には、市場が対象とするステークホルダーと構成員を「批判・啓蒙の対象となり、ステークホルダーは経済取引の対象ではなく、社会運動を一緒に担うアクティヴィストという位置付けになります」(『クリティカル・ビジネス・パラダイム』)との要件は充たしています。他人より自分の利益を最優先する「利己的な活動」が優位となり、利他的な倫理観が著しく後退して鈍麻してしまい「良心なき欲望、倫理なきビジネス、道徳なき蓄財」が社会全体を覆っていることへの強い違和感が、構想する「新しいマーケット」の社会的存在意義です。山口周氏の『クリティカル・ビジネス・パラダイム』は、とても重い問いかけを私に課した一冊でした。