第18回 ディランズ・チルドレンがやってきた。
2008年5月5日
アーラには「Welcome to A.G Town」という定期的な事業があります。奇数月開催で年六回のシリーズものです。可児市はヤイリギターという世界的なギターメーカーがあります。それに因んで「アコースティク・ギターのまち」、すなわち「A.G Town」という小さなコンサートをブラックボックスのロフトで催しています。
そこにディランズ・チルドレンの一人の友部正人さんがやってきました。40年前とまったく変わらない歌唱法で、予定の時間を20分ほどオーバーして、懐かしい曲や新しいアルバムに入っている曲をつぎつぎと唄ってくれました。私の中で時間が一気に何十年とさかのぼりました。下北沢にある「レディジェーン」という飲み屋にたむろしていた頃、本当はジャズを聴かせる店なのに日をまたぐ時間になるとわがままを言って、高田渡さんや加川良さんや友部正人さんや大塚まさじさんのアルバムを聴きながら朝まで飲んでいたものでした。まだ一人前になっていないが、志だけは高い、才能豊かな「予備軍」たちがそこにはたむろしていました。
その頃、ボブ・ディランの『欲望』というアルバムがヒットしていて、これも真夜中のレディジェーンの定番でした。友部さんの唄を聴きながら、その頃に私たちのあいだで起こった妄想とも思えるようなイベント企画のことを思い出していました。『欲望』を聴きながら誰ともなく「ディランを呼ぼう」という声が上がりました。ディランが来たら日本のディランズ・チルドレンは集合するよ、と音楽プロデューサーの室矢憲治が言い始めました。金を持っているやつを俺は知っている、と誰かが言いました。北海道にいくつかのゴルフ場を経営している「○○緑化」という会社の社長のことでした。読み進むと社名は伏せておいた方がよいことが分かります。のちに首相になる某氏の「金庫」役だということでした。政商です。これも誰ともなく、十万人くらいは集れる場所がいい、だとするなら北海道の原野でやるしかない、となりました。あの「ウッドストック」が皆の頭の中にはありました。ならば、と私は言いました。当時は物書きをしながら広告の仕事もしていたので「ならば、オレは北海道電通に話を通して協力体制を作ってくる」と大きく出ました。室矢は、西海岸に行く予定があるからディランに会ってくる、と言い出して、翌日から私たちはディラン・コンサートのために動き始めたのです。若さなのか、酔いにまかせた勢いなのか、ともかくも私たちは走り出しました。大人たちから見たら妄想と切って棄てられるたぐいのものでしたが、私たちには丁度よい時間つぶしでした。
なんとも無鉄砲で、無分別な人間たちが「レディジェーン」には集っていたものです。いまから35年ほど前のことです。友部さんの唄でその頃のことが鮮やかによみがえって来たのです。私はすぐに北海道に飛びました。北海道電通の事業部を訪ねました。軽くいなされたのかもしれませんが、実現するなら協力するという言質を引き出しました。私たちはもうすぐにでもディランの原野コンサートは実現するという気分になっていました。あの『欲望』を生で聴ける、と有頂天になっていました。
とうとうスポンサーと話しをすることになって、中心メンバーの4人で麹町のビルにその社長を訪ねました。その頃ですから手書きの企画書を持参しました。その企画書に目を通さずに社長は「で、いくらかかるんだ」とど真ん中に直球を投げ込んできました。私たちにとっては、ディランを呼んで北海道の原野に十万人集めてコンサートをやる、というのは時間をもてあまし気味の「予備軍」にとっては一種のゲームのようなものでしたから、経費の細かい計算まではしていませんでした。「一億……?くらいか、二億まではかからないとは…思いますが…」と4人が雁首を揃えてたがいに顔をうかがうような感じでした。「日本中が大騒ぎになるのか」と彼は言いました。私たちは一斉に「もちろん」と返していました。この社長、ディランを知らないのです。なのに畳み込むように「ディランズ・チルドレンが全員集合します」と私たちはプレゼンテーションしていました。間の抜けた会話でした。
結局、このディラン・コンサートは実現しませんでした。スポンサーになるはずだった「社長」と喧嘩になったからです。くだんの話の後で私たちのうちの一人に「毎月の手当てはいくらでも出すからいい娘を紹介しろ」と迫ったというのです。言われた当人は相当悩み抜いたみたいで、数日後にレディジェーンで私たちのそのことを打ち明けました。「ふざけんじゃねえ」と瞬間湯沸かし器のように私たちのあいだの空気は怒髪天を突く様相になりました。翌日、麹町の会社に押しかけて「恥ずかしくはないのか、そんなポン引きのまねまでしてやりたいとは思わねぇ」と啖呵を切っていました。これが「コトの顛末」です。いま思えば若者の正義感です。夢より正義感を選んでしまったわけです。いまでも間違ってはいなかったと思いますが、あの時にディランとディランズ・チルドレンのコンサートが実現していたら、その後の私たちの人生は百八十度違っていたと思います。大学で教鞭をとることもなかっただろうし、劇場経営をするなんてとうてい有り得ないことです。
友部さんの唄がそのときの細かい出来事まで思い出させてくれました。「Welcome to A.G Town」には、これから続々とディランズ・チルドレンがやってきます。「カレーライス」や「プカプカ」が生で聴けます。ちなみに「ディランズ・チルドレン」とは、昔大阪球場のそばで大塚まさじさんがやっていたスナック「ディラン」に集っていたミュージシャンたちを指す言葉です。その店に、室矢憲治に連れられて私も一回行ったことがあります。そこで「春一番コンサート」の福岡風太さんを紹介されました。
今度下北沢に行ったら、久しぶりにレディジェーンに寄ってみようと思います。