第205回 見えないと始まらない、見ようとしないと始まらない ― 社会ダーウィン主義を超えるための「手段としての社会包摂プロジェクト」を。
2019年12月2日
可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生
羅針盤と海図を持つことのできない人々の、せめて舳先に広がる漆黒の海を照らす灯台でありたい、子どもたちが向かう「未来」の居場所を照らす希望でありたい、私が可児市に居を構えて可児市文化創造センターalaの館長に就任した時、職員をはじめ劇場に関わる保守管理、警備、清掃、受付業務等の業務委託先の従事者を前に「芸術の殿堂より人間の家」、「社会機関としてのアーラ」を目指すべき到達点として提示したのには、そのような思いがあったからです。利他的な精神に満ちた時間と空間によって、劇場と社会のユニバーサルデザイン化を使命として、性で差別しない、肌の色で差別しない、職業で差別しない、年齢で差別しない、障がいの有無で差別しない、そして忘れてはならないのは所得の多寡で差別しないという原則を貫くことです。多様なそれぞれの境遇を、それぞれの個性として受け入れ、その違いのある個性を持った「いのち賑わう」広場こそが劇場であってほしい。森に降る雨が地表に染み込んで、豊富な栄養をためこんだ一滴一滴のしずくが流域に多くの恵みをもたらし、終には豊饒の海を生み出す「カキの森」の役割を果たすのが劇場であり、音楽堂であり、社会機関として地域課題を解決に向かわせて「いのちの環境」を健全なものに整える「インクルーシブ・レガシー」を上書きし続ける「みんなの広場」なのではないかと、私はその出発点で思っていました。かつて97年に『芸術文化行政と地域社会』の中に書いた劇場、98年に遭遇して現在までも続いている英国・リーズ市のリーズ・プレイハウス(当時はウエストヨークシャー・プレイハウスWYP)のような劇場を、私は夢想していたのです。
「未来を予測する最良の方法は未来を創ることだ」はP.ドラッカーですが、日本ではまったく前例のない社会包摂型の劇場経営でしたし、劇場に一歩踏み込んだと同時にWYPのような「ユニバーサルな広場」が日本に10ほどあれば日本は「生きやすい社会」になると思い続けていたこともあり、まさに「未来を創る」ための、職員たちの先頭に立って日本の社会の変化を牽引する仕事に我を忘れて邁進したのです。表題はガリレオ・ガリレイの言葉です。私は「社会包摂」への意思形成についての講演をする折に、金子みすずの「昼のお星は眼にみえぬ、見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」を引き合いに出して、昼の空に星を見るような目を持たなければと話の穂を継ぐのですが、「見ようとしないと始まらない」のガリレオには「強い意志」が窺われて、「社会包摂プロジェクト」を志す者には、そのような「強い意志」がなければ「生きづらさ」や「生きにくさ」を感じている人々の、「希望格差」や「夢格差」を甘んじて受けて容れている子どもをはじめとする人々の心の在り様は決して見えてこない、と思っています。劇場人やシアターマーケティングとその拡張によるブランディング(社会的承認)を志す者には、そのような意志が重要な資質だと、この12年の劇場経営を振り返って強く思います。「誰もが一人ぼっちを感じない」まちづくりの拠点施設になることが出来れば、劇場を誰も「ハコモノ」とは決して言わないし、「税金の無駄づかい」とも言わなくなるばかりか「まちに必要な施設」として承認され、認知をされることになります。これもこの12年間が私に教えてくれたことの一つです。
22年前に出会った英国・リーズ・プレイハウス(LP)との国際共同制作『野兎たち』(作:ブラッド・バーチ 演出:西川信廣 マーク・ローゼンブラッド)も、提携構想から11年目でようやく東京と可児とリーズでの公演に漕ぎ付けるところまで来ました。現在ブラッドは第5稿に入っています。初稿からのプロセスは、日英の社会に対する現状認識と価値観を共有するための時間だったと思っています。この舞台は、単に日英の二つの劇場がそれぞれのリソースを持ち寄って舞台を制作するということに止まらないで、ともにコミュティとともに社会的価値を共創しようというコミットメントを持つ両劇場が、世界とどのように向き合い、世界に対していかなる思索を経て何を発信するかのプロジェクトだと思っています。昨日、この『野兎たち』のコピーを考えていました。最初にアトランダムに『野兎たち』を推敲するおよそ2年の過程で、根雪のようになっている言葉を記しました。「孤立 臆病 孤独 曠野 都会 世界 つながりの貧困 希求 希望 家族」というキーワードが浮かんできました。そして、『荒涼たる曠野で、「孤独」を生きる野兎たち。病んで、臆病な彼らに「希望」は訪れるか』にヘッドコピーがおさまりました。すでに20数年来の付き合いの仙台在住デザイナーにこのコピーを昨日投げました。
この舞台制作の可児稽古と時期を同じくして「世界劇場会議国際フォーラム2020」が開催されます。(https://www.kpac.or.jp/event/detail_973.html)愛知芸術文化センターを会場としていた2012年に、「日本に公共劇場はあるか」という問い掛けをテーマとしたセッションを嚆矢として、昨年の「劇場は社会に何ができるか、社会は劇場に何を求めているかIV 文化芸術による社会包摂の扉をたたく」まで、8年にわたって、2000とも3000ともあると言われる日本の劇場音楽堂等が、どのように社会化すべきか、公共的な機関として広く認知されるためにいかなる経営戦略を持つべきかをテーマに活発に議論し、みずからに厳しく問うてきました。そして今年度は、近年、全国的に盛んに行われるようになった社会包摂型プロジェクトへの問い掛けとして、『文化による社会包摂、その社会的価値をとらえなおす』というテーマを掲げて、「どのような社会を実現したいのか」という変化に向かうための世界観や理念や価値観を持たなければ、それは一時的な「ほどこし」に堕してしまうという自戒の意味も込めたセッションとしたいと考えています。
現に「ほどこし」のようにプログラムを実施していたり、単に補助金が付くことがモチベーションとなって社会包摂を取り入れたり、何が欠落しているのかを自覚しようとしない劇場職員・福祉施設職員、NPO職員がいることも申し添えたいと思います。「認知症のことを理解できた」という地域創造フェスで、岡山の和気町の菅原さんのワークショップを実施した責任者の口からでた言葉には呆れました。あきらかに「ビジョンなき社会包摂」です。「ビジョンなき社会包摂」の担当者は、上記のような公の場で語る資格がないとさえ私は強く思います。社会包摂の誤解者であり、曲解者でしかなく、いまの段階でそれを許すと、劇場音楽堂等の機能ばかりか、社会包摂そのものの認知からも著しく遠ざかってしまう、と私は危惧します。
劇場音楽堂等と文化芸術が「娯楽の提供」という単一目的の施設であるなら、国民市民から強制的に徴収される税金を投入する根拠は、今日的な国と自治体の逼迫した財政状況を鑑みても、その受益者が国民市民のおよそ2%前後でしかないことを勘案しても、また2020年以降に予想される経済環境の悪化を織り込めば、「文化予算の維持と増額」は現実的ではありません。むしろ「選択と集中」の時代に入ると、私は考えています。現に増額された消費税を事業主体が被らなければならなくなりかねない制度変更が2024年度を目途に進められています。「縮んでいく経済」にあって、劇場音楽堂等と文化芸術はどのような社会的・公共的機能を発揮しなければならないか、という問題意識を持っている、あるいはぼんやりとした不安を持っている関係する方々には、そのための糸口の一端、あるいは考えられる処方箋が視野に入るに違いないと、世界劇場会議国際フォーラム2020の主宰者・企画者として確信しています。2000席前後の「興行場及び貸館としての公共施設」を、あの90年代の狂乱の「ホール建設ラッシュ」を何ら検証せずに設置している自治体やそれを許しているその当該地域の文化関係者とは径庭の価値観、理念に依拠する「社会機関としての劇場音楽堂等」へのプロセスとグランドデザインを共有し、ネットワーク化する場に出来ればと願っています。2300席の貸館に420億円、1600席の貸館に267億円をかけて、本当に支えなければならない、寄り添わなければならない人々を見て見ないふりをしている機関や政治家や学者研究者、文化人たちとは訣別する機会にしなければと、心から思っています。「適者生存」の社会ダーウィン主義を是とする人間たちとははっきり訣別しなければ、私たちは望ましい未来を手には出来ないと考えています。
「見ようとしなければ、始まらない」のです。